生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

すぅ~とぉ~れぇ~すぅ~がぁぁぁぁぁ

 男をダメにするっていう歌あったよね。なんかこう、苛立ってます。女子の日が近いからか、気にくわないニュースが多いからか。

 プレミアムフライデー、ニュースで持ち上げすぎです。何だこのプロバガンダ。プロバガンダって言葉久しぶりに使ったわ。プレミアムな福利厚生を受けられる環境の私たちですよっていう意味かと思った(人間がねじくれている)。

 春樹の新刊出版の様子、きもい。なんでもイベントきもい。一人ではできないことでも集団でならやるって、酔っ払いの集まりみたい。「やっぱり春樹だなと思った」って誰の本を待ちわびて買ったんだよ。

 飲めない人を飲み会に誘うのもめんどい。飲まなくてもいいんですって、って酔っ払いが嫌いなんですって。飲んでるからいろんなハードル下がってると思ったら大間違いだぞ。私はいちいち「ああ、酔うとこういうこと言うんだ。ってことは、心底ではこう思ってるんだ」と思いつつ話を聞くから死ぬほどストレス。タガを外すなら人がいないところですればいいのに。

 自意識過剰病が多すぎてめんどい。マスクが外せないんです、じゃあ外さなくていいんです。引きこもりなんです、出てこなくていいです。そういうこと言うと「強い人だから」って言われるけど、生まれたときからこんなじゃなかった。

 頑固さは損だなと思うことは本当に多いけど、尻軽になんでもいいねいいね言いたくないからFBってなんでやってんのかな、って時々思う。最近ニュースフィード代わりにもならないからやめよ。

 人間の強さは心の狭さと関係しているのかもしれないなって思う。それは強さじゃないよ(だって映画で言ってた)みたいな声がきこてきそうだけど、おおむね他人に興味がないから、可も不可もなくって(=許容しているってこと)、うん、ただ率先して関係ない興味ない問題に頭を突っ込みたくないだけなんだな。




 すごい、すごい自分。なにもかもが、こんなふうに穿って耳に届く。こういう日もあるんだなと思うけど、なんだかもうイライラしてていやだなあ。

 最近、突発的な、本当に予想だにしていなかったいろいろに出くわして「ひいいいい」ってなってる人が多い。私はというと、まるでそういうのなくて(勘が鈍いからかもしれないけど)、ただただイライラしている。

 一触即発のほうが不可抗力だって思えるから楽かもしれない。ニュース消そう。FB閉じよう。ああ、めんどくさい。

グループの由来

「生きることは物語を作ること、それは哲学すること」をおっぱじめたのは私です。こんばんは。

非常に今更だけど、このブログのどこかに書いてそうだけど、ブログの記事のトップに厚かましく宣伝貼ってるので書いておこうかと思いまして。

お馴染みさんには「もー、今更?」か「えぇー、またそれ?」だろうけどね。いっつも同じこと言ってんの私は。

生きるとは、自分の物語をつくること (新潮文庫)

生きるとは、自分の物語をつくること (新潮文庫)

ユングさんとか河合隼雄さんとか、すごい人たちの言葉をつなぎ合わせて「こういうことが言いたいんだ」って書いたとして、それは私の言葉じゃないから違うんだよね。どんだけ稚拙でも私は私の言葉を使っていきたい。だからアマゾンリンクだけ貼ってスルーする。

私はずっと人はなぜ物語(小説・寓話・神話)を求めているのかなあと思ってた。自分自身、小さなころから本を読むのが当たり前できてたから、なぜかなんて考えたことがなかった。知恵がついてからは「無知は罪だ」とかいいつつ、読んでた。自分の欲求の根本は完全無視してね。なんて恥ずかしい青年時代。

今の段階で私が「そうじゃないかな」と、確信は持てないもののぼんやりと感じているのは、人は物語で癒されるから求めるんだろうな、ってことです。

物語が人を癒すなんて面倒くさいし難しいよね。それって疑似体験で満たしているってこと? とか思うよね。たぶんそれも入るんだわ、本を読むってことは。でももっともっと、脳みその中身のことだと思うんだよねえ。

神話って、簡単に説明するとあり得ないお家騒動ですよね。でも今なお読まれ続けています。全部に教訓があるわけじゃないし、為になる話してるわけじゃない。不思議だなあと思ってました。

あるとき、私は無理してガルシア・マルケスを読みました。背伸びをする時期って言うのは、いくつになってもあるもんだと思います。そんな無理めな読書の最中、突然「おおお! そういうことか!」とたどり着きました。それはね、この中のどこかに自分がいるってことです。

私は、人が物語を欲するのは、物語の中の自分に出会うためだと思いました。

物語の中の自分を見つけて追体験することは、あるときは自分を鼓舞することだったり、またあるときは慈悲を向けて慰ることなんだろうと。自分で自分を補完する作業をしていること、それが物語を必要としている理由の一つだと思ったんです。

あと、絶対に人は人生という物語を描きながら生きている。何かを見て感動することも、誰かと出会って揺れることも、一人で自分だけの言葉で、自分だけの気持ちを温めることも、すべて自分の物語を自分で作って、自分を補完しつつ不完全ながら何とか生きているんだと思うんです。

人によっては誰かの存在がなければ補完できないと感じているかもしれない、人によっては何かに接していないと補完できないと感じているかもしれない。あるいは、一人でこそできると思っている人もいるかもしれない。そんなことに優劣はなくって、人は生まれてきた以上生きる欲求がある、そのことが「物語を作ること」なんだろうと思ってます。

だからこのグループ名。漂うことが好き(結論を出すのが嫌い)とか、結論を出さねば意味がないとか、いろいろやり方はあるだろうけど、絶対に否定してほしくないのは「生まれてきた以上生きる欲求がある」ということです。

自殺は簡単にできると思う。誰かが、家族が悲しむから、っていうのは体のいい言い訳。本当は悲しませたくない自分がいるはず。すべて自分で責任を負うことが、生まれてきた意味、生きる意味だと思う。なので、TNKISMもこのグループも、そうじゃない人はこなくていいって思ってます。

生まれてきたのは自分の意志じゃないもん、と思うかもしれない。誰だってそうだよ。でもどうせ死んじゃうんだよ。じゃあ、いつまでもスタート地点に文句言ってないで、先に進もう。



一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

ちなみに私が挫折して、塩鯖が読んだこの大作。塩鯖が「面白くない」という本を初めて見ました。私がもう一度この本を手にすることがあるのだろうか。

土曜日に、春樹の新作が届きます。

哲学カフェに行ってきた話

 相変わらず、意味の分からないアクセスが来ていますね。なんですかiPhoneでここをしこたま見ているあなた!! そんなおもろいこと書いてないだろうが!! 陰でひっそり、誰の受けも狙わないものをせっせと書くのが楽しいのです。ちなみにここ、月間1000アクセスですってよ。もうね、主に一人の人だから怖いよね。

 あ、そうそう、先日3%と91Daysを見終わって、そろそろヒンターランドも見終わるんですよ。ブラックミラーは最新ものまでは見終わっている。こんなだから、海外ドラマ専用のブログでもやろうかと思ったりはしてました。広く浅く網羅するサイトじゃないっていうのがポイントです。

 さて、先日哲学カフェに行ってきました。尾道で開催されたものです。美味しいコーヒーを出してくれるカフェで哲学談義。12名の人が集まりました。

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 今回は初めましての方も多かったそうですが、何を隠そう私も初めましてでした。だから膝がガクガク笑ってました。すみません、小心者なんです。

 テーマは「私たち人類は、進歩しているのか?」というものでした。私の答えはもう出しているんだけど、答えを出すとか出さないとかじゃなくて、私としてはいろんな人がどんなことを考えたのかを聞く場、として楽しみでした。だってそんなこと日常で考えないじゃん。進歩だろうと退化だろうと、生きてるものは生きてるんだし。

 ちなみに、私のテーマに対する考えはこんな感じ。

私は、神的視点から考えると、退化する部分もあるだろうと思っています。このまま人間は進歩を続けていくと、どんどん卵に戻っていくような、2001年宇宙の旅スターチャイルド的なものになるんだと信じています。退化なのか進歩なのかわかんない。だけど、私個人としては常に進歩し続けていると思うし、そうであると思いたい。

端的な言葉で表現すると、「今日の私より明日の私のほうが優れていると思いたい」ということです。なんかダサくてかっこ悪い(笑)でも事実こう思って毎日過ごしています。

昨日できたことが今日はできなくなるかもしれない。だけど昨日の私ができなかったことを、今日の私はやってる、みたいなね。そういうものの積み重ねで、人生はスパイラル状に上ってゆき、私が死ぬときには、生まれたときの私ではなくなっている、同時に生まれたときの私に戻っている。精神的な死とは、「私」という人生を「打ち立てる」ことでであってほしいな、と思っています。

「進歩は良いことか?」ということについては、私は基本的に良し悪しを判断しない(好き嫌いは当然判断するけど)ようにしているので、いいも悪いもないんじゃないか? って思います。誰かにとって良いものは、誰かにとって悪いものだってこと、往々にしてあることだしね。自分が心配することは、自分の両手の範囲だけって決めてますから。

 哲学カフェそのものはとても有意義な時間だったし、面白かったし、興味深いものでした。進行役の女性はとても賢いんでしょうね。話を聞きながら、まとめて、疑問や矛盾は良いタイミングで指摘する。それがあるから混乱せず、また混戦せずに会話が進んでいくんだもの。

 いるだろうなーと思ってたら、やっぱりいたー!! というタイプの意見もあり。自分の問題を人類の問題に置き換えるタイプの言い方をする人ね。それ自体は非難も否定もしないんだけど、問題を本気で解決する気はないんだろうなあって思う。だってすっごいバカでかい問題にしちゃって「どうしようもないねえ」的なところに落とすのってそういうことじゃない? 

 私は人ひとりが抱えられるだけの問題を抱えていけばいいと思っているし、人類の為に憂えたり行動を起こしたりする人がいたとしても、地球の半分を、いや1/4でも一国でもいいわ、「よいしょ」と動かせるわけじゃないだろう? じゃあ自分のできることをできる範囲でできる限りやるのが誠実ってもんじゃないか? って思ってますんでね。

 総じて「より良くするための行動を進歩と呼ぶ」という意識のもとでやってたと思うんだけど、その「より良い」の多くが「争いのない世界」を指していたことにも驚き。そんなもん出来ると思ってんのか(いや、相当難しいという認識はみんなある)。私はけっこう雑なので、オリンピック選手が「金メダルとりたい!」と思うことと、テロリストが「あの国には負けたくない!」と思うのとの、エネルギーの違いなんて分からんので一緒にするんです。エネルギーの発散の方向ややり方が違うだけで、エネルギーそのものは一緒でしょ。

 闘争というエネルギーが殺人という罪を犯す可能性があるからエネルギーを淘汰しようとしているようで、気持ち悪いなあと思いました。そんな性欲も物欲もない干からびた世界なら私は生きる意味が見つからないね。あるいはスターチャイルドにさっさとなっちまいたいね。

 結論としては結構理想論を語る人が多いんだなあと思いましたね。私みたいにダダ漏れな人はいなくって、争いのない世界のための理想的な人類の進歩を望んでいるような(いや、私だって一応そういう理想はあるけど、現実にできもしないことを語るだけなんて欲求不満になる(笑))。

 そして技術の進歩を忌み嫌う傾向があるんだなって思いました。まぁ、原子力発電所がああなっちゃうとねえ。でも、だからって原子力エネルギーなんてなければよかった、とは思わない、私。あの莫大なエネルギーをコントロールするために人間としての自制心や危機管理能力や平和の意識などなど、理想的な人間が持っているすべてを習得する努力をする必要があるんじゃないのって思ったくらい。

 ある人が「昔の人は火おこしができたけど、自分はできない。退化している」といったけど、代わりにマッチやライターやチャッカマンがあるじゃあないですか。文明が生んだ道具はそれまでの人たちの苦労から生まれた知恵の塊だから、使わない方法を称賛するのは、使う側のメランコリックってやつだよ。

 とてもとても、超否定的なことばかり書いてますけど(すみません、全然嫌いじゃないし、むしろ考えるきっかけをくれてありがとうと思ってる。性格が悪いだけです)、あの場や時間はすごく有意義で、本当に楽しかったです。

 次は「疑わしきは罰せず、は可能か?」です。私は「疑わしきは罰するにすればいい」と思ってます。李下に冠を正さずだよ。あらんことで疑いをかけられたら、甘んじて罰を受けますとも。それが平等ってものです。