沼地のある森を抜けて

沼地のある森を抜けて

沼地のある森を抜けて


 再読記録をすっかり忘れていた。もうとっくに読み終わってます。

 この物語はとても大きなことを描いている。この厚さ以上の物語が描かれている。それは漠然としたものではなく、とても具体的なものだ。例えばフリオのくだり、光彦だったものがフリオになるとき、主人公久美は泣き崩れる。これはなんのメタファーか、ということを、わたしはあまり考えない。ただ、光彦だったものがフリオになり、久美に話しかける。それで久美とフリオの関係はひとつの終焉、あるいは補完とも呼べるだろう、ともかく丸く収まるのだ。

 わたしはこの小説の中の登場人物では、絶対に、圧倒的にカッサンドラのファンだ。気持ち悪い存在でめそめそしていて湿っぽくて恩着せがましくてか弱い。わたしが女だからだろうか。カッサンドラの気持ちはカッサンドラの正体がわかる前から「哀れ」に映るのだ。母になりそこねた女のような、芯を失ってしまったまま大人になってしまった(少女でとどまることなく)女の恨み言に聞こえるのだ。中盤からカッサンドラの正体がわかるけれど、だからと言って物語の理解が深まるわけではない。カッサンドラに魅せられている時点で物語への理解は足りているのだ。

 この小説では現実世界とまた別の世界が描かれている。それは細菌の世界なのか、まったく別次元のものかわからない。けれど最後、久美と風間さんがたどり着いた先で行われた、ちょっとすっとこどっこいの世界の後に記される詩がこの大きな物語をすべて融合、いや、包括といったほうが良いだろうか、丸く、丸く、とても愛しい大切なものに変えてくれる。爽快感ではない。あるのは生命への慈しみの気持ち、掛け値なし、損得勘定なしで、すべての生物が持ちえる「愛しい」という気持ちが世界を多い尽くして物語りは幕を閉じる。

 細かなところを取り出せばいくらでもいろいろ書けちゃうので今回はここまで。いい小説は何度読んでもいいものです。

 Bloggerでも書いた。ああ、絶対に伝わらないしなんか変だよと思うけどいい。
http://cimacox.blogspot.jp/2013/08/numachinoaru-mori-wo-nukete.html