生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

純文学って難しいんだろうか?

 適当に宣伝と、適当なぶつくさです。こんばんは。

 TNKISMは哲学カフェのテーマをお借りすることにしました。お借りしたテーマ2点、思いついたテーマ1点でお待ちしております。もちろん私も語るぜ、そのうち。

tnkism.com




 さて、純文学だよ。

 会社の隣の席の女の子が本好きで、だけど純文学はよく分からないというので春樹の1Q84を貸したのね。いきなり長編ですけど、たぶん一番読みやすいんだよ。下手に短編貸すほうが「なにこれ?」になる可能性大だと思う、村上春樹

 私は村上春樹に限らず「純文学」が好きですが、純文学が何かって言うのはわかりません。ボーダーがないところだと思ってます。だからあなたが東野圭吾に純文学性を認めるのであれば、それは純文学だと思う。私にとっては違うだけ。

 隣の席の子は、何をテーマに読んでいいか分からないのが苦手だ、と言いました。だから1Q84もミステリ的に読み進めていて、リトルピープルや空気さなぎが解明されるとどこかで信じていたようで、否定はしないが肯定もしない私の姿勢に、多少やきもきしたようです。テレビピープルと一緒だと思ってるわ、ぐらいしか言えないってそんなの。

 目的を持った読書、というと私の場合専門書になります。っていうとぎゃふんという顔をするので面白かったですが、なにかな、この違和感。

 私の中の純文学は、人類(あるいは個人)の大きなテーマに対して、改めて気づくような本質的な部分を刺激するもので、喜怒哀楽や妬み嫉妬、歓喜、悲哀などひとつの感情を大げさに描くのはちょっと違うな、と思ってます。とことんまでやると面白くなるけどね、ドン・キホーテみたいなね(やっぱり古典かよ)。

 なので、私の勧める本はどうにもいただけないものが多かったようです。っていうか、1Q84博士の愛した数式しか読んでくれませんでした。残念。

 私の好みの本はハードルが高いと言われましたが、決してそんなことはなく、なんでも読める人が一番すごいと思います。すぐに断念しちゃう私。きっと永遠に読めない1984

 私は想像の世界での自由がほしいんだよね。想像力は無限大とか言うけど、自分一人だと限界があるんだ。特にもう立派な大人になっちゃったわけだしさ。大人になって何が悲しいって、合理的すぎて遊びがなくなったってことなんだよ(大人になってもそれを持ち合わせている人もいる)。シナプスがいつもの回路を通っていつもの場所に繋がっちゃうわけよ。全然自由じゃない。その窮屈さをパーンと壊してくれるのが、想像力を駆使する読書、映画、芸術、なのよね。

 というわけで、純文学は「だからハードルが高い」ということはない、と思います。



 こういう、くだらないことをぐだぐだ考えているとき、SNSで「私だけだと思っていた!(けど違ったみたい。だからシェアするわ!)」的なものに絶対ひかっからないだろうなって思う。たぶん私だけがぐじぐじと、ぐだぐだと考えているんだわ。そう考えたら、なんだかシリウスの向こうの冷たいきらめきみたいな気がして、悪くないかなって思った。ブレようにもブレないんだもん。メンドクサイ自分。

ホッとしたわ…

哲学カフェのテーマどうしようって考えてて、全然気が利いたの思い浮かばなく、ついに哲学カフェを開催してる方々にメールしまくったの、私。

 

お返事が、きた!!!

 

やっほーい!! これでテーマを得たぞ!

これからジワリジワリとやりますよ。ディスカッション形式です。むふ。

 

喧嘩しないよーにしようね。

騎士団長殺し第一部を読み終わり

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 ちっとも我慢できずに一気読みしました。だいたい3、4時間ぐらいで読めました。この時間、タイムスリップしたみたいに一瞬だった。ああ、良い読書時間って素晴らしいなあ。

 物語のネタバレはありません。だってまだ全部読んでないしね。だからネタバレを求めてきた人ごめん。

 じゃあ今日はなにを書くのかって、そりゃ物語とはなんたるか、です。イデアとメタファーってサブタイトルにもなっている単語だもの、触れずに語れないよ、きっと。

 本好き芸人さんのアメトーークの記事を読みました。私は又吉さんと光浦さんまったく趣味が合わないなと思いました。カズレーザーさん、若林さんと合う。嬉しいような、嬉しくないような。又吉さんの小説に対する姿勢とか視点は大好きなんだがなあ、なんでそれ読んで面白いと思うんだろうって思うんだよねえ。

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 本なんて嗜好品といえば嗜好品。だからどの本が好きであろうと個人の趣味なわけで、でも趣味が似ている人って勝手に親近感もつわけで、応援しようかなとか、ちょっとテレビ見てやるかって思って行動したりして、人間って本当にポジティブで前に向いて生きるようにできてるんだなあと思います。人間って、っていうか「人間の脳」って。

 私は20年ほど前に春樹を読み始めて、苦戦して苦戦して何度もチャレンジしてようやく描いている世界を掴むことができたんだけど、塩鯖ったら一発でできたんだよね。これは日ごろから筋トレしてる脳みその部位の問題か? と思ったけど、ちょっと違うと最近思うようになったのよ。じゃあなにが違うかって、期待度だよ。

 私は小説には「こうであれ」というものを持っていて、だから期待値に達していないものや、的外れなものに対して、すごく理解しようと努めるわけ。なぜこの作者はここでこのシーンを描く必要があったのか、とか、こうした人を登場させる意図は何かとか。

 小説そのものはメタファー(隠喩)である。もっと分かりやすく言えば「嘘話」である、ということが大前提で、そのうえで「なぜその嘘をつく必要があったのか」ということを考えるわけです。そのとき、私の期待値を裏切らない作家(作品単位じゃだめなんだ、一貫性がないと人として信用できないんだ)であってほしいと願っている。その期待度が邪魔をして、私の脳みそを物語が通過するとき、寄り道とか迂回とかいろいろあって、たどり着くのに時間がかかる。

 そんだけのことだった。だから宮沢賢治の読み方を教えてもらった時は、目から鱗ならぬ脳みそから汁みたいな、顎が抜けそうってくらいに愕然とした。

 まぁ、それを知った今でも、私の本を読む意味とは、その中にいる自分に出会うことであり、それはいつだって予想の範囲内ではおさまらないこと。言い換えれば冒険。ここんところは変わってない。より効率的に質の良い冒険をしたくなったくらい(笑・これが本を読まなくなった一番の理由だなあ)

 だいたい春樹の本を読んだらこういうこと考えるねえ、私。

 新刊のこの本は、メタファーの風の中を私の想像力の翼が大いに、意図する方向に、伸ばすだけ伸ばして(むしろまだそれほど伸びたかと自分が驚くほどに伸びて)、思っていた自由よりもまだ先の自由があった、と感じさせてくれる本です。

 あえて似てる作品としたら、海辺のカフカかな。もちろん、春樹の小説に欠かせない象徴のあれこれは(血を流すとか、セックスするとか、扉を通過するとか、巨大なシステムに対して個人ができることとか)出てくるけど、うーん、そうだねえ、人間の欲や、人の成長を描いていない小説ってあるでしょうか。そんなところです。いちいちセックス描写に欲情できるっていいなあと思います。

 というわけで、前編の感想は太字のところです。ちょっと用事がいろいろあるから続きは読めないけど、日々のストレスを忘れて飛び回れるこの世界が手元にある喜び。本当に今の時代に生きててよかったなあ。春樹さんありがとうー!!