生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

ゴーンガール

 観覧注意のデートムービーをようやく見ました。塩鯖と。うふっ。

 ネタバレ云々はいろんなところで語りつくされているでしょうから(まぁ、だいたい私のレビューなんてそんなもんだ)、好き勝手に書く。

 夫婦のストーリーだが、序盤で少々飽きつつも「この毒親から解放されて田舎暮らしとは可愛そうに」とエイミーに同情したいけれどなんだかおかしい。私は女刑事さんと双子の妹が正しいように思えて仕方ない。なんだろうな、この違和感なんだろうな、気持ち悪いなと思っていたら、やっぱり! な衝撃展開、もつかの間のもっと衝撃怖くてエイミー君誰だよ状態でした。予想以上にサイコでした。

 誰だって「演じている」自分がいることはわかっていると思う。それが社会の役割ってもので、いつだって丸出しの「ありのまま」で素敵な人なんてそんなにいないって私は思っている。では、演じている自分は本当の自分ではないのか。いいえ、本当の自分です。ペルソナが独り立ちしましてとねか、多重人格のうちの陽気な子が散在しましてね、みたいにたいそうなことになってる人なんてそれほどいるわけがない。もしいたとしたら、大方の人間がそうである、と思ったほうが良いと思うね。最初から特別で選ばれた人間なんてほんの一握り。エイミーもそうではなかった。だからエイミーは選ばせた。怖いね。

 エイミーは自分の理想のためにならなんでもやりおった。でも自分の理想をニックに「あなたが望んだ」と言った。夫婦であれば「あなたが」といえるが、そうではない人は「世間が」、この映画では「メディアが」求めた物語を提供し続けるエイミー、アメイジングエイミー、私の仕事は「アメイジングエイミー」。それって死んだときになんか残るのかなと、エンディングロールを見ながら思った。

 他人がいくら満足しても、自分自身が満足できなければ「ああよかったな」と思えないはずだ。そんな道は選びたくないな。

 しかしアメリカのメディアって分かりやすくて怖いね。日本のメディアってまだ害が少ない気がしてきた。メディアって不特定多数の視聴者の目、なんだけど、そこで意思が生まれて流れてゆくと、同情を得たほうが犯罪も見逃されるってこもあるでしょ。やだなあ、前から言ってるけど、集団ヒステリー(個人の意識の問題ではなく、そこの意見がヒステリーって意味で)で傷つくのは一番イヤだな。

 ところでこの映画はカップルで見るといい的なことid:t_katoさんちで読んだのを思い出した。ちゃんとカップルで見ましたよ。

 私は始終「怖いよう、でも旦那もなかなかダメ男だから仕方ないな(浮気したことを、しかもけっこうバカ女だったことが許せない)」でしたが、塩鯖は「すべて思惑通りにはめられたことがむかつくな。よし仕返ししよう。離婚してアンディと結婚してやろう」と言ってました。

 映画欲がなみなみ満たされましたとさ。