生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~世界に狂った色彩を~

できる人とできない人って何が違うんだろう

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 こんばんは。私は英才教育など受けておらず、お稽古事もお習字だけ(そろばんは九九ができなくて断念)、学校の勉強は並の上だけど、それは母の強権教育のおかげだったと思います。ほっとくとしたいことしか勉強しません。

 でね、それなのにシュタイナーに片足を突っ込んでみたんですよ。まぁこれが「漠然としすぎてて意味が分かんねえええ!!」です。でもね、なんか分かりそうな気がするから厄介だなあ(いっそ分からなければやめてしまうのに)と思ったので、シュタイナーさんが作り上げた人智学が詰まったシュタイナー教育ってなんだよ、と思って調べました。

シュタイナーは学校について、「一切の偏見から自己を解放することができる、自由な人聞を育てる場所でなければならない」と考えていました。そのような人間を育成するため、シュタイナー教育では「教育そのものが芸術行為であるべき」だと考えられています。芸術的なものに触れると人間の感情は高まり、感情とともに取り入れた知識は定着しやすいからだそうです。

 芸術と結びつけるところは理解しがたくても(理屈は頭に入れたから分かるんだけど、私の頭の中で結びつかないだけ)、「一切の偏見から自己を開放することができる」というところは理解できる。理解はできるがきっと全容は理解できていない。

 おそらく人は偏見から自己を開放することはできない。生きていくうえで偏見は常に形成される。中庸でいることの難しさは、シンプルが最も難しいということだと思う。

 しかし塩鯖を見ても旅友を見ても、こういうパラドックス的ジレンマを抱えていないように見える。一切抱えていないということはないだろうけど、少なくとも「答えがわからないから判断しかねる」と止まっているところを見たことがない。それはあの人たちに散って「一切の偏見から自己を開放する」ということなんて大した問題じゃないからなんだろうなと思う。

 彼らにとって「考える必要があること」は「達成するための方法・手段・作戦」だろうと思う。やりたいことを見つけたとして、なぜそれがやりたいのかを考えることはどうでもいいこと(塩鯖的には「面倒くさいこと」らしい)なのだろう。確かにわからなくもない。考えても答えが出ないことを考えるのは時間の無駄なのかもしれない。

モンテッソーリ教育は、子どもに「自分を育てる力」――すなわち「自己教育力」が備わっていることを前提としています。この力を充分に発揮できる環境および自由を子どもに用意し、自発的な活動を促して成長させることがモンテッソーリ教育の基本理念です。「自立していて、有能で、責任感と他人への思いやりがあり、生涯学び続ける姿勢を持った人間を育てる」ことを目的にしています。

 シュタイナー教育と並んで有名らしいモンテッソーリ教育はこんな感じ。塩鯖はどちらかというとこちら側っぽいなと思う。けれどいずれにせよ、他人の価値観に左右されない強さがあるということだと思う。そして私にないのはまさにそれだ。

 ということは、実に俗っぽいところに落ちる。人の目が気になるか否かだ。これは塩鯖と付き合い始めてからもずーっと考えている。私はすごく気になる、塩鯖は気にしない。ここだよなあ、って思う。一言でいうと「変にプライドが邪魔をしている」とか「何かを痛烈に信じている」とかになると思う。塩鯖は幼いころ父親を亡くしているが、そのときこう思ったそうだ。

「神様はいない、絶対助けてくれる人なんていない。じゃあ、自分でやるしかない」

 塩鯖すげえな、と思うことは多々ある。でも、この人がゆるぎない正解かというとそれは分からない。できれば私に付き合ってうだうだと考えてほしいが、3分ぐらい質問攻めにしたら電池が切れて寝てしまった(漫画を持ったまま! 朝なのに! 休みだからね!)。寝る直前はとんでもなく退屈そうだった。強制的に生命維持機能以外を切ったのだろう。

 そして今、また糖質制限と塩分制限生活が始まって、かつ難病の一つである間質性肺炎であることもわかったので(主治医がさらっと「進行してないから大丈夫そうだね」って言ったらしく、おいおい初耳だよと思ったけど)禁煙し始めたので、落ち着かないようでお腹空いたを連呼している。いろいろ忙しい人である。ならば質問に答えてくれたらいいのにねえ。