生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

電波ってますね

 前の記事はめちゃくちゃ電波ってますね。いわゆるバーサクモードだったみたい。こんばんは。でも実際頭の中はそんな感じです。だから今日も電波る。

 このブログ、ずっとこの記事がアクセス数高いんですよ。

cimacox.hatenablog.com

 なにを求めて検索しているんだろうね。いいんだけどさ、いいんだけど。あれだ。今時分は「えぇ!?あの人が荒らし!?」って感じはなくて、見たら微妙に時空が歪んでるような人いるでしょ、ああいう人がやってるんだと思う。妙に不一致な人ってスーパーですれ違うだけで分かるもん。

 都合のいい、お金のかかるスピリチュアルは信じないのですけど、体感したことは信じるんです。っていうかね、潜在意識と顕在意識についてって本はたくさん読んだんだけど、自分のそれってよくわかってなかったんです。だけどこの間の講座と、その後、塩鯖に「こんなことしてきたよ!!」って言ったことでよくよく分かりました。私、けっこう統一されている。

 嘘をつきたくないんです。くっだらない嘘も、くだらなくない嘘も、社交辞令も建前も、本当は大嫌いなんです。ただ、大人だから周りの人を不愉快にさせたいわけじゃないので、そこまでつんけんしてないつもりだし、厳しいわけでもない。極端に人見知りが発動することが多いからむっつりに見られますが、おおむねむっちりでOKです(最近エロくない。むっちり度しか上がってない)。

 そういうことを一生懸命自分なりに社会に合わせようと努力してみて、やっぱダメだなあって思う日もたくさんあって、でも家に帰って一人になったとき「まぁええよ、死ぬわけじゃないし、そもそもそんなにオレ目立つ方じゃないし」と自分で自分を慰めていたんです。たぶんこれが統合の始めあたり。

 その後、私を否定するDVと、全否定と時々肯定を繰り返す人と関わる時期になり、完全に自分を閉じ込めたね。DVに至ってはここに書くことや、星を付けて回ることすら見張ったぐらいなので、完全におかしいよね。人って、そういうことされて、いちいち怒られて、なぜこのブログのここに星を付けたんか言ってみろ! とかを徹夜でやらされるとね、籠城するもんだと思います。

 約3年ぐらいの籠城期間を経て、塩鯖に会ったんだね。塩鯖は素晴らしいのよ。よだれはすごいし朝起きられないしって普通の人だけど、100%褒めてくれるんだよ。一点の否定もなく全肯定されるっていうのは、私の人生でおそらく3度目。たぶんこの時点で私すごく幸せな人生を歩んでるんだと思うわ。

 で、まさにこれが催眠療法とか、インナーチャイルドを癒すとかいうやつなのね。だから私塩鯖といてやってもらってたことになる。この塩鯖、ただの塩鯖じゃないな。

 そして講座の最後に見た映像をもう一度見たいなあって話したら「え、見れるでしょ。寝る前にやろうと思えば大冒険とかできるじゃん」って。お前それ今私が習得しようとしてるやつだよ!! どーりでぼけぼけしてるときはまるっきり「無」だよね、塩鯖!! ってぎゃーぎゃーして、終わり。その夜、私はセルフヒプノに取り組みつつ、ぐっすり寝てました。快眠のための手法かよってぐらい良く眠れるわ。

 まぁ、そういうわけであの講座に出て心底思ったのは、私って今悩みらしい悩みがないんだなあってことです。悩みゼロじゃない。未来に不安もある。明確なビジョンを持っている人からすると、私なんて綿あめみたいなビジョンしかない。そのしょぼさに怖くなったりはするが、誰かにどうにかしてほしいとか、嫌いな人がいるとか、嫌なことしてるとか、そういうのがない。

 まぁ、接する人を極端に減らして防御してるところも確かにありますが、なんていうか、なにをどうしたってダダ漏れなんでね、いいや別にって思ってると、けっこう統合されちゃうんだと思うんですよ。

 目下、セルフヒプノで映像を見るのを目標に頑張っております。あの浮遊感の中で留まっていられるのだろうか。で、それって夜明け前の夢と現実の間、あるいは寝付いたすぐの音は聞こえるけど映像は別に見えているあの時間と、なにが違うのか誰か説明してください(たぶん一緒です。ダリが絵を描くときにインスピレーションをもらっていた方法がこれだそうだからね)。

 今日も電波った。痛い自分。でも別に誰からも好かれる「愛されるオレ♡」になりたいわけじゃないからいいや。

ヒプノで見た風景はブログタイトルそのものだった、という話

 更新が滞っているのは、忙しかったり、ぼさーっとしてたりで時間が経過してしまった、ただそれだけです。

 今日は初めてセルフヒプノの講座に行ってきた。その直前、この本を読んでいた。これがとんでもシンクロだった。

 この本に出会ったのはいつかな。たぶん発行されて2年ぐらい経過していたんじゃないかと思う。私は作家と河合隼雄先生の対談が大好きだ。単純に、純粋に、疑う余地もないほどに私が癒される。そして作家の作品やエッセイを読むよりも、私の知りたかったことを言葉に残してくれるから好きなのだ。

生きるとは、自分の物語をつくること (新潮文庫)

生きるとは、自分の物語をつくること (新潮文庫)

 この本は小川洋子さんがリードしつつの対談ではあるけれど、人が生きることについて真摯にお話されている。テーマは特に設けていないと書いていたが、それにしても守備範囲が広い。生きることと死ぬこととと、ただそれだけの営みと言ってしまえばそれまでだけど、人には必ず文化(信仰)が沁みついていて、何年もの歴史を背負って生きていて(これは前世からの物語というのもあるかもね。でもそんなこと、わかんないし、そうだと思うならそうと決めてしまえばいい類のものだと思うんだわ)、否応なくストレートには受け止めがたい現実に直面することもあって、それでも生命という塊は生きる道を選ぶもの。

なるほどの対話 (新潮文庫)

なるほどの対話 (新潮文庫)

 たしかこの対談でばななさんは「死ぬという選択肢は簡単だから選ばない」と言っていたと思う。こんなこと言えるのは、よしもとばななさんの感性・距離感で、彼女なりに正しい「死」との距離を持っているからだと思う。彼女の小説は死があふれている。しかし、それも含めて「人生」を愛している。それが伝わってくるから、彼女の小説が大好きだ。

 人は生まれてすぐに建前や社交辞令や「間を持たせる会話」を言えるわけじゃない。おっぱい飲みながら「おかん、今日もいい天気やな。おっぱいも調子ええな」とか言えない。魂そのものの叫びしかない。当然「死」なんて知らない。同時に「死」そのものでもあると言える。とてもとても、純粋な、無垢な存在なのだ(そしてそういう存在を見た自我のある人間は、庇護したいと思う。これが母性。誰にでもある当たり前の愛。私は子供苦手と公言しているけど、母性を否定はしていない。庇護したいと思うよ~。甥っ子たちは庇護したい上にいじめたいし可愛がりたいよ~。母性のエゴ使い)。

 そういう存在からどんどん生きやすさの為に、本音を隠す方法とか、言い訳とか、嘘とか、沈黙とかを鎧のように着ていく。近い将来、それらが重くなる日もくるわけだけど、それまではそれに守られながらね(※この鎧は後で出てくる)。そんな風に一生懸命生きていると、死はとても遠く、死への意識は生まれたてのころあんなに近かったのに遠くなる。

 しかしね、生きていると死からは逃れられない。家族やペットや身近な誰かの死を見ることになる。そのとき、どれくらい「死」を理解し、取り込み、滋養にするか。そういう時、人はとんでもなく大きな物語を作ることになるんだと思う。もちろん、一生懸命に生きて、死なんて関係ないと思っているときにも物語を作っているんだけどね。

 このブログのタイトルは素晴らしいなと改めて思う。生きることは物語を作ること。それは哲学することでもあり、運命を生きることでもある。人はそれぞれにそれぞれの物語を描きながら生きている。冒頭の小川洋子さんと河合隼雄さんの本のタイトルからいただいたように見えるけれど、実際違うんだけどもうどっちでもいいや。これが真実だから。

 そして私は、というと、その美しさを残しておきたいと思うから、今自分が身に付けているスキル(っていうと、仕事みたいでいやだなあ)を総動員して、ひとりひとりの物語を書きたいと思っている。文章力、自分では「ある」とは言い難い。でも、なぜか人から褒められるのはここだから、きっと私のここは光っているんだと思う。信じてみようと思う。

 長くなりました。が、今日セルフヒプノの講座を受けて、実際にヒプノってる最中に見たもの、とんでもなく大きなスクリーンに映し出された草原、宇宙、巨大魚たちがのびのびと泳ぐ海。それらを見ながら私が思ったのは、こういうことなのでした。時間にしておそらく5分程度の出来事。

 この講座を開いていらっしゃるのは奥田珠紀さんという素敵な女性。彼女に出会えたこと、彼女からセラピーを受けたこと、全部本当に「良かった」って心底思う。目の前を通り過ぎるいろいろを見ながら、自分が「重いな」と感じた。それはきっとけっこう脱いできたと思っていた鎧(※のとこのやつ)があるんだと思う。決して不要なものではないんだけど、着脱可能になったほうが、いくらも身軽に動けると思うから、今日からちょっと自分の為に時間を取ろうと思う。

 完全に頭がいっちゃってる人の話みたいになったけど、明日は普通に会社に行きます。生きてくうえで社会性は必要だからぬ。

妹ちゃんのアイシングクッキー

 うっこり放置長すぎました。いや特に、マンガ読んだり副業のあれこれしてたりしただけです。

 妹がクッキーのアイシング教室を頑張っている。台風ばかりの最近は特に湿気との戦いらしい。あいつはいつも見えない敵と戦っているように思う。姉は食べることは好きだけど、飾ることは興味がないので、あの世界は感心こそすれど「私もやってみたい(キラキラ)」といった感情が芽生えない。すまん、妹。ラッピングだってポリ袋に入れて何となく縛るまでが限界よ。

 そんな無知な姉でも、妹のすごいなあと思うところがある。食い意地、、、げふげふ。気を取り直して、いくら美しいものであれ、食べておいしくなければ意味がないと断言するところだ。ローフードだろうが美容に良かろうが、不味いもの、あるいは満足感が損なわれるものは、そもそもどうなんだ、と。ごくごく当たり前の材料で、美味しいクッキーを作って、そこにママと子供がアイシングして、家族で食べる。そういう「当たり前の作る幸せ、食べる幸せ」を増やしたいのが妹の思いであって、彼女の生き方そのものだなと思う。

 私は変に完璧主義なので、自分が作ったお菓子の酷さは許せないので買ってしまうが、実は料理上手の母もさほどお菓子の腕前はよろしくないようで、母手作りのお菓子で豪勢なものは記憶にない。でも、それでも、混ぜて凍らすだけのアイスとか、微妙なカルピスとか(後にヤバいものだったことに気づくが、身体に異変はまるでなかった。乳酸菌すごいね)、蒸しパンとか、そういうの覚えている。不思議なほど、子どものころの味の記憶って忘れないものなんだ。だからママは下手でもいい(下手前提に話してすみません。自分が下手だからこうなっちゃう)、一緒に作って楽しい記憶を作ればいいんじゃないかと思う。

 こういうの作ってるらしいです。絶対的にセンスが足りない。でも妙に愛らしさがある。あいつそのものである。

 今日電話で話していて、三姉妹ともに母が幼いころから言い聞かせてきた「手に職」と「技術は身を立てる」ということを、二人ともひしひしと肌で感じるねえ、と言い合っていた。両親が足腰を犠牲にして学校に行かせてくれたおかげ。私はパソコンの技術と知識を、妹は食に関わる知識を身に付けた。二人とも仕事に関わる中で美学を持つようになり、今はその美学をどう生かすか、表現するかというところにいる。本当に、心の底からありがたいなあと思う。

 さ、連休最終日。塩鯖と久々の休み。たぶん朝うどん行ってごろごろする。