生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

正解が出せないものもあると書いておきながら、大いに内容は「うぜー」と言っている記事

 おはようございます。書きだした時点ではどんな記事になるのか見当もついていないエッセイストです。

 ここを読みに来てくださるくびたおるさんのブログを久々に見ようとしたら、プライベート設定Σ(゚д゚lll)ガーン 気づかなかった自分にびっくり。そもそも行脚を怠り過ぎておりました。いつも星をくれるのに申し訳ありませんでした。解決、id:kubitaoruさんははてなダイアリーを使用されております。スタークリックだとブログに飛んじゃうから「ぎゃー!!」ってなるんだね。LINKから行けよ私。

 ここ数日、本を読んでいないので見事に書くことが浮かびません。いや、日中は「あ、これ覚えてたらブログに書こう(めっちゃいいこと思いついた)」と思うのですが、寝て起きたら忘れているのです。その程度のことってことだから、口惜しさはほとんどないのですが、昨日の自分なにをしていたんだろうか、と愕然とします。

 子供という漢字は差別になるから「子ども」と書くべき、という考え方があります。理由はこちら。

・「供」は「お供」、あるいは「供物」などと、下の者やささげものといったニュアンスがある。よってこの字を使うべきではない。
・「供」あるいは「共」は、複数の人間に対して使う蔑称である。それを連想させる字を使うべきではない。
引用元:えっ「子供」が差別用語ですって? ご冗談を…「子供」を「子ども」と言い換える気持ちの悪い自主規制は撤廃されるか | Pouch[ポーチ]

 文部科学省では「子供」で統一と言ってるそうですが、無根拠のこの「っぽくない?」的な発想が一部で市民権を得ているようで。といってもこの記事2013年だ。でも私もこのご意見をつい最近見たところ。理屈も全くこれと同じものだった。

 我々はどこまで見えない何かに配慮しなければならないのだろうか。私、あまり神経が行き届いている方ではないから、差別用語狩りに出くわしたら大変だと思う。このとき主に大変なのは私ね。もちろん議論する気もないし、神経をすり減らしながら公開されるブログを書いているわけではないから「無神経」と言われればそうだろう。だからひとまず謝ってその場を収め、直す、、かどうかは気分次第。

 今こそ喫煙家は肩身が狭いのが当たり前になっているけれど(いいえ、異議はありませんことよ。場所さえ確保してくれればいいんです)、それでも自宅などのプライベートが守られている場所であれば特に猛烈な苦情を訴えられることはないわけで、だからそれほどストレスにならないのだけど、差別用語狩りに関してはいきなり人格にまで及んでくるから始末が悪い。こう言うことで怒る人は何に対して怒っているのだろうか。

「男は女より賢い」というと差別になる、しかし「女は男より賢い」といっても問題がない。私はこっちの方が問題だと思う。女の私はそう思う。

 単語に罪を着せたとして、何か解決するんだろうか。

 なんか釈然としないなと思うのは、やっぱり私は「そんなに神経質にならなきゃいけないものなの?」と思っているからだ。公的にルールが決まったからこうしなさい、と公表されたか否かは問題ではなくて、明らかに見下していることが語源だろうなと思うものはあえて使う必要もなかろうと思うが、あれもこれもと増えてこられると対処しきれず辟易する。というのが本音のところだ。

 昔々、私が7歳ぐらいのころのこと。父とその友達が集まって飲んで食ってくだをまく会があった。そのとき父たちが話していたことが、こういう感じだった。「子供の未来の選択権をどこまで許容するか」について「①上も下も見せてから選ばせるのが自由だ」という人と「②この家に生まれてきたからこの家が基準になって当然ではないか」という人と「③きっちりレールを敷いてやっておけばレールを進む」というもの。どれが正解だ、普通だ、ということはないのだと思う。大人になってさえそう思う。

 多数は正義ではない。かといって少数も正義ではない。私たちはどこまでも相対的にしかものを見られないのかもしれないし、それは私だけなのかもしれない。「かもしれない」の連発になるようなことは、あえて正解を突き詰めない。良くも悪くも、きっとこれが健康のしるし。

 吉良上野介は悪人だと伝えらえているが、私としては大石内蔵助は昼行燈だというほうが、よほど不名誉なことに思える。だがしかし、これもちょっと愛嬌があっていいような気もする。