生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~世界に狂った色彩を~

万引き家族

 絶対辛いからどうしようかなと思っていたんだけど、昨日うまく寝付けなかったので見た。やっぱり辛いなあ。是枝監督の映画はきついなあ。

 なにが辛くてきついかって、人が人であるぎりぎりのラインの人を描いているから。このギリギリのラインというのも私の感覚であって、本当にこんな暮らしをしている人もいるだろうし、もっと過酷な環境で生きている人もいると思う。けれど、そう信じたくはない私がいる。人はもっと幸せであってほしいと願わずにはいられない、辛い現実。

 この映画は、万引きをしなければ暮らせない人たちを描いたものではないし、家族とは何ぞやを説いたものではないと思った。人はずいぶん前から善悪の彼岸道徳の系譜については熟考してきた(全員とは言わない。けれど、歴史的に見れば多くの人がこのテーマを何度となく突き付けられたはずだ)。

 私は「奪うこと、奪われること」を描いたものだと思った。あの家族は、様々なものを奪っている。そして、奪われている。そしてあの家族以外の人たちも、様々なものを奪って、奪われて生きている。生きることは、奪うこと、奪われること、だったんだと。

 けれど、この映画の結末を見て思った。奪う、奪われるの輪廻から脱することはできるんじゃないかと。それが、あからさまに万引きして終わらせた翔太くんの存在。彼は様々なものを背負って、凛ちゃんを助けた。凛ちゃんが本当の家族(虐待する親)の元に戻されることが、5歳の凛ちゃんにとってベストとは言えないけれど、おそらく凛ちゃんが背負うべき業がそこにあるのだと思う。

 そういう視点で見ると、業を背負うことから逃げ続けているのは、父(リリー・フランキー)と亜紀(松岡茉優)であって、でもそれが悪いことだとは到底思えない。そう、もう人は善悪では問えない事例を嫌というほど見てきて、DNAに刻まれているのだ。

 だから登場人物の誰かが悪いとか、誰かが正しいなんてとても言えない。

誰も知らない

誰も知らない

 是枝監督を知ったのはこの映画からだった。孤独で冷たくて混乱していて、とても悲しい映画だった。でもこの映画にも悪人は出てこない。みんなそれぞれに生きている。万引き家族との違いは、この映画には人と人とのつながりがあまりにも幼い形でしか描かれていなかった(子供同士のつながりだから)。けれど万引き家族には大人がいた。大人がいたけれど、こんな日常で、こんな結末だった。

 お金があって、ものがあって、家族がいて、それで幸せかと問われると、多くの人は疑問を持つだろう。だけど、「でもお金も物も家族も必要だよ」と思い、綺麗ごとを並べる自分に嫌気がさすだろう。いいんだ、両方を望んでもいいんだ。

 私は、お金が最優先ではないけれど、人と人とのつながりがなければ、生きている意味なんてないんじゃないかと思った。それが虐待する親と子の関係であってもだ。悲しいほどに、動物には親が必要なんだ。親子の関係がどんな形であれしっかりと築けたならば、他人を愛することができるようになる(追記:どんな親でも愛情を持っている、という意味ではない。どんな親であっても、そこから学べるということ。例えば反面教師として。人間の子供は大人の庇護がなければな生きていけない。子供から大人に成長したということは、なにがしかの庇護を受けたということ。そこに理想の愛があろうがなかろうが、子供はその中で学びながら成長する。虐待する人は愛を知らないのか? そうかもしれない、少なくとも「愛を与えること」を知らないのだろう。けれど、愛の存在自体を知らない人は、いないと私は思いたい)。そこに、道徳的な善悪はまだ必要ない。それが必要になるのは、他人だらけの社会において、認められるために必要なのだ。

 とても理想論ではあるだろうけど、私は思うことがある。どれだけ最悪な人間関係のなかで、不振や猜疑心にまみれて生きていったとしても、人の魂は正しくあろうとするんじゃないかということ。これは私の願いでありエゴであるけれど、そうあってほしいと思う。そして、こういう感覚は北野武映画や深作欣二映画を見て痛烈に感じること。日本映画の「らしい」ところは、ここにあるんじゃないかと思う。