生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

雨ごとに秋が深まり、愚痴の花咲く朝もある

 今年の秋はタイトル通り。雨が多い。イベントあればたいてい雨。ということで、瀬戸芸初日もどうやら雨です。2時間ほど前、雨が降っていると妹から電話があったからね、たぶんそろそろこっちも降り出す。

 なんだか唐突に真面目スイッチが入った。極道とかヤクザとか、一概に人はこうだと言い切れるものでもないけど「元極道だから~」とか「元ヤクザが語る~」とか大嫌いだなと思う。ガキのやんちゃ自慢をまんまメシの種にしている、むしろそれしかない人なんじゃないかと思う。

 もしね、その経験が良いものであったのなら、そこに居続けたほうがいくらも説得力はある。どんな世界だって楽じゃないだろうけど、ああいう世界は変わらないことを強いられたり、自分を押し殺したりする必要があるから「大変だなあ」と思うんだけど、そういうのが嫌になって出たんなら、それは甘えじゃないかって思うのよ。そもそもそういう世界に入ったのって、最終的には自分の意志なんだしさ。

 好きで入って嫌いになったから出て、ただそれだけじゃないかと思う。そこには勇気もクソもない。わがままを貫き通せた、というだけだ*1

 わがままさえ貫き通せない人がいる。たぶんそれは、今そうできないだけであって、追い詰められたらきっとできる。いつだって最後の最後に選べないものは、最初から選んでいないものなんだってことだ。いつもは違うもんってことだとしても、いつもは自分の意志以外のもので選んでいるっていうことだ。

 関係を断ち切ったり、また広げたり、そういうのってある種の壁を越えたら簡単にできるようになるもんだと思う。その壁って「恥」や「こだわり」っていう個人の壁ね。それを超えるのが大変なんじゃんって思うかもしれないけど、ホント清水の舞台から飛び降りる気持ちになれば誰にだってやれることだと思うんだよね。

 それよりもずっと難しいのは、広げた先で見たことがないような関係性を築くことだと思う。同じ世界を二度作るのって、たぶんそれほど難しくないからなあ。いつまでも毎年の同窓会が楽しいタイプの人はこうなんじゃないかと思う。成長しないって言ってるじゃなくてね、変化の必要がないんだろうなって思うんだわ。それはそれでいいんじゃないかと、心の底から思ってる。実際、中学のころからの友達はそういうタイプだし。双方の世界に口出ししない(でも生存確認と土壇場の泣きは聞きあう)って自然と決まってるので、お互い住処を荒らさない。

 何事においても、一番かっこいいのは「拾ってきたワンちゃんを看取るまで飼い続ける」ことだと思ってる。最後まで責任を持つということは、それぐらいかっこいいことだと思う。どうせわがままを貫くなら、自分以外の命に責任を取るぐらいのことで貫きたい。単に自分のわがままを通したオレから学べ(ちゃりーん)っていうのは、まぁ、、、詐欺だな。私、朝から詐欺について怒ってたのか(笑)

 私なんかは「責任持てないなら一時的な優しさは毒だ」と思ってしまう頑丈な脳みそ。まぁ、二番目にかっこ悪いなと思ってる。誠実ではあるが、チキンだなって。マンションだからっていうのは言い訳だからな。でもそういう時期が必要な人生の段取りを選んだってことだから、うん、今は二番目にかっこ悪い今のオレでいい。夢がかなっていけば、犬だろうが猫だろうが一緒に暮らしてやるんだから。

 犬の、毎朝の、今日も朝が来てご主人様に会えるウキウキっていう目は、なにより元気もらえるわって思う。

*1:すべて書き終わって思い出したのだけど、以前こういうヒーラーと名乗る人を勧められてですね、お金を払ったことがあるんです。3回。1回では云々ってことで3回。でも出てきた答えが3回とも違っていて、心底「自分バカだった」と後悔したことを思い出したんだ。その後、その人とは直接会ったけれど、たぶん以前の3回のことなんてまるで覚えていなくて(むしろいつでも初めまして)、また違うこと言われたっていうね。客商売なら顔か名前かぐらい覚えろと言いたかったね。

電波ってますね

 前の記事はめちゃくちゃ電波ってますね。いわゆるバーサクモードだったみたい。こんばんは。でも実際頭の中はそんな感じです。だから今日も電波る。

 このブログ、ずっとこの記事がアクセス数高いんですよ。

cimacox.hatenablog.com

 なにを求めて検索しているんだろうね。いいんだけどさ、いいんだけど。あれだ。今時分は「えぇ!?あの人が荒らし!?」って感じはなくて、見たら微妙に時空が歪んでるような人いるでしょ、ああいう人がやってるんだと思う。妙に不一致な人ってスーパーですれ違うだけで分かるもん。

 都合のいい、お金のかかるスピリチュアルは信じないのですけど、体感したことは信じるんです。っていうかね、潜在意識と顕在意識についてって本はたくさん読んだんだけど、自分のそれってよくわかってなかったんです。だけどこの間の講座と、その後、塩鯖に「こんなことしてきたよ!!」って言ったことでよくよく分かりました。私、けっこう統一されている。

 嘘をつきたくないんです。くっだらない嘘も、くだらなくない嘘も、社交辞令も建前も、本当は大嫌いなんです。ただ、大人だから周りの人を不愉快にさせたいわけじゃないので、そこまでつんけんしてないつもりだし、厳しいわけでもない。極端に人見知りが発動することが多いからむっつりに見られますが、おおむねむっちりでOKです(最近エロくない。むっちり度しか上がってない)。

 そういうことを一生懸命自分なりに社会に合わせようと努力してみて、やっぱダメだなあって思う日もたくさんあって、でも家に帰って一人になったとき「まぁええよ、死ぬわけじゃないし、そもそもそんなにオレ目立つ方じゃないし」と自分で自分を慰めていたんです。たぶんこれが統合の始めあたり。

 その後、私を否定するDVと、全否定と時々肯定を繰り返す人と関わる時期になり、完全に自分を閉じ込めたね。DVに至ってはここに書くことや、星を付けて回ることすら見張ったぐらいなので、完全におかしいよね。人って、そういうことされて、いちいち怒られて、なぜこのブログのここに星を付けたんか言ってみろ! とかを徹夜でやらされるとね、籠城するもんだと思います。

 約3年ぐらいの籠城期間を経て、塩鯖に会ったんだね。塩鯖は素晴らしいのよ。よだれはすごいし朝起きられないしって普通の人だけど、100%褒めてくれるんだよ。一点の否定もなく全肯定されるっていうのは、私の人生でおそらく3度目。たぶんこの時点で私すごく幸せな人生を歩んでるんだと思うわ。

 で、まさにこれが催眠療法とか、インナーチャイルドを癒すとかいうやつなのね。だから私塩鯖といてやってもらってたことになる。この塩鯖、ただの塩鯖じゃないな。

 そして講座の最後に見た映像をもう一度見たいなあって話したら「え、見れるでしょ。寝る前にやろうと思えば大冒険とかできるじゃん」って。お前それ今私が習得しようとしてるやつだよ!! どーりでぼけぼけしてるときはまるっきり「無」だよね、塩鯖!! ってぎゃーぎゃーして、終わり。その夜、私はセルフヒプノに取り組みつつ、ぐっすり寝てました。快眠のための手法かよってぐらい良く眠れるわ。

 まぁ、そういうわけであの講座に出て心底思ったのは、私って今悩みらしい悩みがないんだなあってことです。悩みゼロじゃない。未来に不安もある。明確なビジョンを持っている人からすると、私なんて綿あめみたいなビジョンしかない。そのしょぼさに怖くなったりはするが、誰かにどうにかしてほしいとか、嫌いな人がいるとか、嫌なことしてるとか、そういうのがない。

 まぁ、接する人を極端に減らして防御してるところも確かにありますが、なんていうか、なにをどうしたってダダ漏れなんでね、いいや別にって思ってると、けっこう統合されちゃうんだと思うんですよ。

 目下、セルフヒプノで映像を見るのを目標に頑張っております。あの浮遊感の中で留まっていられるのだろうか。で、それって夜明け前の夢と現実の間、あるいは寝付いたすぐの音は聞こえるけど映像は別に見えているあの時間と、なにが違うのか誰か説明してください(たぶん一緒です。ダリが絵を描くときにインスピレーションをもらっていた方法がこれだそうだからね)。

 今日も電波った。痛い自分。でも別に誰からも好かれる「愛されるオレ♡」になりたいわけじゃないからいいや。

ヒプノで見た風景はブログタイトルそのものだった、という話

 更新が滞っているのは、忙しかったり、ぼさーっとしてたりで時間が経過してしまった、ただそれだけです。

 今日は初めてセルフヒプノの講座に行ってきた。その直前、この本を読んでいた。これがとんでもシンクロだった。

 この本に出会ったのはいつかな。たぶん発行されて2年ぐらい経過していたんじゃないかと思う。私は作家と河合隼雄先生の対談が大好きだ。単純に、純粋に、疑う余地もないほどに私が癒される。そして作家の作品やエッセイを読むよりも、私の知りたかったことを言葉に残してくれるから好きなのだ。

生きるとは、自分の物語をつくること (新潮文庫)

生きるとは、自分の物語をつくること (新潮文庫)

 この本は小川洋子さんがリードしつつの対談ではあるけれど、人が生きることについて真摯にお話されている。テーマは特に設けていないと書いていたが、それにしても守備範囲が広い。生きることと死ぬこととと、ただそれだけの営みと言ってしまえばそれまでだけど、人には必ず文化(信仰)が沁みついていて、何年もの歴史を背負って生きていて(これは前世からの物語というのもあるかもね。でもそんなこと、わかんないし、そうだと思うならそうと決めてしまえばいい類のものだと思うんだわ)、否応なくストレートには受け止めがたい現実に直面することもあって、それでも生命という塊は生きる道を選ぶもの。

なるほどの対話 (新潮文庫)

なるほどの対話 (新潮文庫)

 たしかこの対談でばななさんは「死ぬという選択肢は簡単だから選ばない」と言っていたと思う。こんなこと言えるのは、よしもとばななさんの感性・距離感で、彼女なりに正しい「死」との距離を持っているからだと思う。彼女の小説は死があふれている。しかし、それも含めて「人生」を愛している。それが伝わってくるから、彼女の小説が大好きだ。

 人は生まれてすぐに建前や社交辞令や「間を持たせる会話」を言えるわけじゃない。おっぱい飲みながら「おかん、今日もいい天気やな。おっぱいも調子ええな」とか言えない。魂そのものの叫びしかない。当然「死」なんて知らない。同時に「死」そのものでもあると言える。とてもとても、純粋な、無垢な存在なのだ(そしてそういう存在を見た自我のある人間は、庇護したいと思う。これが母性。誰にでもある当たり前の愛。私は子供苦手と公言しているけど、母性を否定はしていない。庇護したいと思うよ~。甥っ子たちは庇護したい上にいじめたいし可愛がりたいよ~。母性のエゴ使い)。

 そういう存在からどんどん生きやすさの為に、本音を隠す方法とか、言い訳とか、嘘とか、沈黙とかを鎧のように着ていく。近い将来、それらが重くなる日もくるわけだけど、それまではそれに守られながらね(※この鎧は後で出てくる)。そんな風に一生懸命生きていると、死はとても遠く、死への意識は生まれたてのころあんなに近かったのに遠くなる。

 しかしね、生きていると死からは逃れられない。家族やペットや身近な誰かの死を見ることになる。そのとき、どれくらい「死」を理解し、取り込み、滋養にするか。そういう時、人はとんでもなく大きな物語を作ることになるんだと思う。もちろん、一生懸命に生きて、死なんて関係ないと思っているときにも物語を作っているんだけどね。

 このブログのタイトルは素晴らしいなと改めて思う。生きることは物語を作ること。それは哲学することでもあり、運命を生きることでもある。人はそれぞれにそれぞれの物語を描きながら生きている。冒頭の小川洋子さんと河合隼雄さんの本のタイトルからいただいたように見えるけれど、実際違うんだけどもうどっちでもいいや。これが真実だから。

 そして私は、というと、その美しさを残しておきたいと思うから、今自分が身に付けているスキル(っていうと、仕事みたいでいやだなあ)を総動員して、ひとりひとりの物語を書きたいと思っている。文章力、自分では「ある」とは言い難い。でも、なぜか人から褒められるのはここだから、きっと私のここは光っているんだと思う。信じてみようと思う。

 長くなりました。が、今日セルフヒプノの講座を受けて、実際にヒプノってる最中に見たもの、とんでもなく大きなスクリーンに映し出された草原、宇宙、巨大魚たちがのびのびと泳ぐ海。それらを見ながら私が思ったのは、こういうことなのでした。時間にしておそらく5分程度の出来事。

 この講座を開いていらっしゃるのは奥田珠紀さんという素敵な女性。彼女に出会えたこと、彼女からセラピーを受けたこと、全部本当に「良かった」って心底思う。目の前を通り過ぎるいろいろを見ながら、自分が「重いな」と感じた。それはきっとけっこう脱いできたと思っていた鎧(※のとこのやつ)があるんだと思う。決して不要なものではないんだけど、着脱可能になったほうが、いくらも身軽に動けると思うから、今日からちょっと自分の為に時間を取ろうと思う。

 完全に頭がいっちゃってる人の話みたいになったけど、明日は普通に会社に行きます。生きてくうえで社会性は必要だからぬ。