生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

戦いってなんだろうね

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 実家に帰省して昼ご飯を準備しているとき、この番組がテレビから流れていた。タテカン、まったくなじみがない。なので最初は何を言っているのかなと思っていたけれど、家族4人、女はご飯の準備をしながら、男はつまみ食いやビールを飲みながら、誰かが「で、これなに?」っていうと「京都大学の伝統らしいよ」みたいな会話をしながら理解していった(こういう雑なテレビの楽しみ方が一番好きだったりする)。

 その文化や歴史を知らなければ、当事者たちが抱える重さなんて分からないわけで、その重さというのは結局番組の終わりあたりで分かったのだけどね。要するに、京都大学の伝統である立て看板を、行政指示で撤去ということになったけれど、京都大学生が反発している一連の騒動をドキュメンタリーとしてまとめたのがこの番組であった、ということ。

 いい大人になってしまった私は「行政措置ならば、従うべきでしょうに。それでしか自己表現できないなんて思い込みで、行政に迷惑をかけながらやることでもないでしょうに」と言った。物わかりのいいダメな大人の典型的な意見みたいだ。20代の私なら「いいや、タテカンこそ伝統の自己主張なのだ。表現の自由を! ファシズムに屈しない! オレは日本を変えるんだ!!」ぐらいに言ったかな、いや、言わないな(もっと地味な抵抗をネットで繰り広げるだろうね)。

 日本は平和だなーなんて思いつつ、番組を聞きながら料理をしていた。タテカン=自己主張が法律という社会システムの壁に邪魔されることが気に入らないだけだろう、やりたいことがやれないという状況が、彼らにとっては学生運動並みの戦いなのだろう。人も死なない、機動隊も出ないけれど。

 一瞬の反発心を長引かせると、目的を見失う。学生運動だって、死人が出たし、中には共食いみたいなことが起こったけれど、終わった瞬間社会システムに屈するべきだったかのように、未来の安心のための勉強を始めたそうだし、第二次大戦後だってわだかまりを抱えた人たちがいながらも、復興や未来に向けて反発していたものに飲まれていった。それと似ているんじゃないか。

 この例えは暴力的かもしれない。けれど、学生運動も第二次大戦も経験していない私にとってのそれは、社会に上手く迎合できない若者の怒り、迎合なんてしてやるもんかと思いつつ、パンク魂だけでは食うにも困り、いつまでも反抗できないんだってどこかで分かってる自分へのいら立ちと似ているような気がしている。

 番組の中で、タテカンで対抗している生徒の一人が「なぜタテカンじゃなければダメなんだろう?」という質問に対して、すぐに返事ができなかった。数日後(であろう)彼はこう言った。

「タテカンじゃなくてもいいのかも」

 片手間ながらテレビを聞いていた4人は、一斉に吹き出してしまいそうだった。(じゃあその抵抗はなんだったんだ! と思うけど、目的が反発にすり替わってしまっただけのこと。彼らは賢いので、反発という方法だけでなく、行政や法の側に回って変えることができることぐらい、分かっていると思うし)

 この一件は些末なこと、と言ってしまえばそれまでだけど、事実これは戦いだったのだろうと思う。私が戦おうと思わないこと、だけど誰かは戦おうとすること。そこですでに戦いは起こる。

 景観だけのために様々が規制されて息苦しくなるのは確かに自由からはかけ離れているように感じるだろう。だけど、たったそれだけのことで奪われるものではないのが自由だろう。少なくとも今の日本は、自由だと思っている。法というルールの中にいることは、決して息苦しいだけではないし、けれど時代とともにルールも変わるべきだとも思っている。戦いを持ち出さなくとも、柔軟さで解決できることはある。でもきっと、戦いによって勝ち得たい人もいる。だから戦いはなくならないんじゃないか、とも思う。

 まったくもって堂々巡りの無駄な思考遊びだけど、ここにね、なんかあるような気がする。

パワー不足か休憩不足か

 おはようございます。休み休みなのは体調不良ではなく、気づいたら一日が終わるからです。FLOは変わらずやっているけれど、塩鯖がいない時間にやりこむのは違う気がして、日中は「今の自分ができること」をしようとしている。”しようとしている”というのも、し終えることもあれば、し終えないこともあるからだ。

 今受けているセッションで、厳しい言葉をかけられた。自分でもわかっていて、自分でも言うことがあったけれど、人に言われるときついなーと思う。きっと、他の人から言われても「へー」で済んだであろうが、大なり小なり頼りにしている人にそう指摘されると、何もかもを放り出して冷たい海にじゃぶじゃぶ入りたくなる。あるいは、暑い日に熱い風呂で昼寝とか。概ね、追い込み型。

 そう、追い込み型にもタイプがあることを最近知った。私は疲れ果てると塩分を摂取したくなるのだが、塩分は身を引き締める、自分を鼓舞したり叱咤したりするときに摂取したくなるものだそう。主に肉体疲労のピーク時に起こるので、さらに追い込みたい、というわけだ。追い込んだことで何か残るならまだしも、過ぎた塩分は体調を崩すだけ、浮腫んで指輪が食い込むだけだ。なんかこう、いつも的外れな気がしてならない。

 ちなみに指摘されたのは「あなたは人をジャッジするから、今の仕事ややり方では結果に繋がらない」ということだった。カチンと来たけれどきっと事実だろう。この社会の合理性に沿った判断のもとで違和感や疎外感を抱かずに生きていくことが「うまくやること」だと思っている。だから欲望のままに失敗するを人を見ると「だから助言したのに」と思ったりすることがある(この点を「ジャッジ」と指摘された)。

 でもそれは私がそう思うことであって、ほかの誰もがそう思うものではない。私が失敗と思っても、他の人は失敗と思わないかもしれないし、失敗したっていいやと思っているかもしれない。私も失敗したっていいやと思うことはあるけど、生理現象に関してはかなり厳しいのかもしれない。自分は生理現象のコントロールがすごく下手だからすごく気を使わないとできない、と思っている節はある(だから突発的な遠出とか怖い)。

 正直なところ、人に対して寛容になるということが、私には分からない。というか、数少ない友人、家族以外の人間関係をほぼ持っていないので、そういう人たちとの接し方や、存在そのものがあまり理解できない。そうした点を踏まえると、寛容なのか不寛容なのかもわからないのが正確なところだろう。そして、そんなのどっちでもいいや、と思っている。

 話を戻して。追い込んだり過剰摂取したりするときは、決まって何かが圧倒的に不足しているのだと思う。きっと爪噛みクセも同じ理由。だから補おうと過剰摂取してしまうのだろう。今は、休んでおくのが最良の選択なのかもしれない。というのも、そう言われたからそうなのかなあと思っているだけな気もする。

 私自身、とてつもなく貧乏性で二重人格で両極端だなと思う。職場に行って働くということは、プライベートの自分を封印しなければできないと思っている。本当はそんなことないと分かっているけれど、なぜかビジネスの場というだけで恐ろしく身構えなければ辛い。きちんとしたところを見せる場所だと思っているのかもしれない。両極端なので本気でプライベートの「好きなものがある自分」を封印する。だから仕事中の私語すらできない。こちらのプライベートを明かすことがないので、相手のプライベートを見ることもなく、気づくと無個性なマシンみたいな日々を送る。だからずっと空虚でイラついているのが社会人メンタル時のプライベート。

 そんな輪廻から解脱したと感じたのが去年の9月。最初のうちはソワソワしたけれど、12月からは家業の手伝いが入ってきたりしたし、海外旅行や、8月は塩鯖が寝込んだり(その後私も寝込んだり)したので、手持無沙汰感が少なかったように思う。だから、無個性なマシンという感覚はすっかり抜けた。言い換えれば、作り上げた社会人メンタルが抜けたのかもしれない。

 それなのに、今またソワソワ病が発症している。きっと夏風邪が治ったからだ。何かをしないといけない、という気持ちで焦ってしまう。この焦りは「いつものループ」のひとつなので、このループに乗らないという、人生初めての試みに挑戦してもいいのかもしれない。「とにかく休め、手と思考を止めろ」というアドバイスは、きっとこれを見抜いてのことだろうと思う。

 そりゃあ塩鯖は「こいつもじゃんじゃん稼いでくれたら楽なのになー」と思っているだろうけど、がみがみと「金を稼いで来い!」とか「働かない奴に居場所はない!」とは言わない。私が勝手に「そうじゃないかな」と思ってビクビクソワソワして、目先の細かな、そして結果を生まない徒労に着手しようとしているだけだ。いや、稼いでくれたら車も余裕を持って買い換えられるのになーぐらいは思っているだろうけどね。

 本当は、違うことがしたいのだろうと思う。もし今、私が結婚していなかったら(そんな妄想はおとぎ話級に無駄だとは知っていても)、節約すれば1年ぐらい暮らせるお金をためて、小説を書くのかもしれない。それが小説になるか、なんになるのかは分からないけれど、自分の一番深い部分を描くことが、いわゆる深層心理や精神世界の物語になるんじゃないかと思っている。星の王子さまや、カモメのジョナサンや、アルケミストみたいな。ちなみに今読み始めたのはねじまき鳥クロニクル。最初からすごいものを書けるなんて思ってない、だけどすごいものを書きたいと、変に野望だけは大きかったりする。

 ここのところ、無性に幸福な王子が読みたかったので、青空文庫で読んだ。悲しくて美しい話だ。久しぶりにパウロ・コエーリョ、と思ったけれど、精神性の高さを物語に求めているのだとしたら、宮沢賢治がもっとも適しているのではないかと思う。あれは自己犠牲でも教訓でもない、ただただこの世界の事実を描いているだけだから、究極に解釈すれば仏教の経典と同じなのだ。そう、究極に精神性を突き詰めれば、宗教にいきつくと私は思っている。アプローチが違うだけで、イスラム教も、キリスト教も、仏教も根っこは同じだと。その根っこを描きたい、私は。

 想像が世界を作るならば、私は塩鯖と今住んでいるうどんが美味いところを帰る場所として、異文化の中でちょっとずつ生活(Life、価値観や視点をその場所で暮らす人に同化させて世界を見ること)しながら、毎日に発見と感動と様々な生きる価値を見て暮らしたいと思っている。

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 NHKの朝のニュースで、この時期子供の自殺が増えるといっている。「大人の皆さん、自分のころの学校生活とは違うんです」と言っていたけれど、ぶっちゃけると今の学校生活の方が温いし先生も優しい。けれど、陰湿さで言えば今の方が圧倒的に酷い。すれ違ったから殴るとか、辱めて笑うとか、そんな程度ではないのが今のいじめだろう(※補足:温いというと語弊があるかもしれない。あらゆる意味でタイプが違うのだ。ダメージを食らう場所も、与えてくる方法も。もう想像もできない)。

 でも、私は思うんだ。いじめは永遠になくならない。戦争がなくならないのと同じぐらい、人類にとって命題なのだ。だからそんなに簡単に解決しない。だからこそ、解決なんて考えずに「今をやり過ごす最良の選択」を、子供たちに勧めたらいいんじゃないかと思う。ズルしてもいいさ、サボってもいいさ、自分の存在価値をのものを否定するものからは逃げてしまえ。なぜなら、君たちはまだそんな大きなテーマに立ち向かうことができるほど、成長していないのだから。立ち向かうのはもっと力がついてからでも十分間に合う。

 姉妹三人ともにいじめられた経験を持つ私としては、いじめに耐えることから得られるものは、それほど大きなものではなかったと言いたい。いや、もちろん得られたものを過大評価しようと思えばできるけれど、そこに重きを置いてしまったら、苦行と忍耐の人生になってしまう。苦しい人生なのは生まれ持った運命じゃない。苦しさを選ぶから苦しくなるんだ。苦しさから逃げてもいい、だけど自分の本心から逃げてはいけない。

 これって寛容さを持つということは不寛容も寛容することなのか、みたいな問答に似てるね。人が多様性を持てばいじめや差別はなくなる風な主張を見ることがあるけど、多様性のひとつに「多様性を認めない」があったとしたら、多様性を認める人はそれも認めることになり、いじめや差別を認めざるを得ないのか? みたいな。

 卵が先か鶏が先かと一緒で、答えは簡単だ。卵が先。多様性云々以前に、されて嫌なことはしちゃいけない、それだけのことじゃないかと思う。

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 自分の表面の部分を書くだけでも疲れた!!

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今行きたいところ
サムハラ神社(岡山)
9/15 大阪でタマさん

ビギナーズラック

 こんにちは、暑い。いや、夏真っ盛りのころよりはましになったか。今日は久々のポスティングに行ってきた。歩き始めて15分、飼い主さんにヒットした。

(こんなことは実にまれです。)

www.shikoku-np.co.jp

 あまりに嬉しくて一人宴。まるやうどんさんで醤油うどんを食った。ついでにおにぎりも。炭水化物フィーバー、糖質制限どこいった。いや、今日だけだ、今日だけ。

(こんなことは実にまれです。)

 そして毎日の星読みを止めた。盛大に「今日で終わりよー!」と宣言したら、まるで自分が店じまいするかのようなメッセージが届いた。焦って「全部閉めないからご安心を!」のメッセージを返していたらこんな時間になった。昼めし食っておいてよかった、っていうか、もう3時。

(こんなことは実にまれです。)

 毎日の星読みは一週間分まとめてやってたけど、これからは土曜日ぐらいに来週の星読みをする程度になった。時間が空くわけだ。この時間、何に使おうと今からむふむふしている。いや、新しい講座の資料作れよオレ。

 でも今日は飼い主さんを見つけられた喜びがあるから、これからちょっとゆっくり休もうと思う。

「こんなことは実にまれです。」は、この小説のセリフだ。この小説、切なくて苦しくておかしくてやるせなくて、すごく好き。いつか、花巻市に賢治ツアーに行きたい、塩鯖と。