生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家二年目~

パワー不足か休憩不足か

 おはようございます。休み休みなのは体調不良ではなく、気づいたら一日が終わるからです。FLOは変わらずやっているけれど、塩鯖がいない時間にやりこむのは違う気がして、日中は「今の自分ができること」をしようとしている。”しようとしている”というのも、し終えることもあれば、し終えないこともあるからだ。

 今受けているセッションで、厳しい言葉をかけられた。自分でもわかっていて、自分でも言うことがあったけれど、人に言われるときついなーと思う。きっと、他の人から言われても「へー」で済んだであろうが、大なり小なり頼りにしている人にそう指摘されると、何もかもを放り出して冷たい海にじゃぶじゃぶ入りたくなる。あるいは、暑い日に熱い風呂で昼寝とか。概ね、追い込み型。

 そう、追い込み型にもタイプがあることを最近知った。私は疲れ果てると塩分を摂取したくなるのだが、塩分は身を引き締める、自分を鼓舞したり叱咤したりするときに摂取したくなるものだそう。主に肉体疲労のピーク時に起こるので、さらに追い込みたい、というわけだ。追い込んだことで何か残るならまだしも、過ぎた塩分は体調を崩すだけ、浮腫んで指輪が食い込むだけだ。なんかこう、いつも的外れな気がしてならない。

 ちなみに指摘されたのは「あなたは人をジャッジするから、今の仕事ややり方では結果に繋がらない」ということだった。カチンと来たけれどきっと事実だろう。この社会の合理性に沿った判断のもとで違和感や疎外感を抱かずに生きていくことが「うまくやること」だと思っている。だから欲望のままに失敗するを人を見ると「だから助言したのに」と思ったりすることがある(この点を「ジャッジ」と指摘された)。

 でもそれは私がそう思うことであって、ほかの誰もがそう思うものではない。私が失敗と思っても、他の人は失敗と思わないかもしれないし、失敗したっていいやと思っているかもしれない。私も失敗したっていいやと思うことはあるけど、生理現象に関してはかなり厳しいのかもしれない。自分は生理現象のコントロールがすごく下手だからすごく気を使わないとできない、と思っている節はある(だから突発的な遠出とか怖い)。

 正直なところ、人に対して寛容になるということが、私には分からない。というか、数少ない友人、家族以外の人間関係をほぼ持っていないので、そういう人たちとの接し方や、存在そのものがあまり理解できない。そうした点を踏まえると、寛容なのか不寛容なのかもわからないのが正確なところだろう。そして、そんなのどっちでもいいや、と思っている。

 話を戻して。追い込んだり過剰摂取したりするときは、決まって何かが圧倒的に不足しているのだと思う。きっと爪噛みクセも同じ理由。だから補おうと過剰摂取してしまうのだろう。今は、休んでおくのが最良の選択なのかもしれない。というのも、そう言われたからそうなのかなあと思っているだけな気もする。

 私自身、とてつもなく貧乏性で二重人格で両極端だなと思う。職場に行って働くということは、プライベートの自分を封印しなければできないと思っている。本当はそんなことないと分かっているけれど、なぜかビジネスの場というだけで恐ろしく身構えなければ辛い。きちんとしたところを見せる場所だと思っているのかもしれない。両極端なので本気でプライベートの「好きなものがある自分」を封印する。だから仕事中の私語すらできない。こちらのプライベートを明かすことがないので、相手のプライベートを見ることもなく、気づくと無個性なマシンみたいな日々を送る。だからずっと空虚でイラついているのが社会人メンタル時のプライベート。

 そんな輪廻から解脱したと感じたのが去年の9月。最初のうちはソワソワしたけれど、12月からは家業の手伝いが入ってきたりしたし、海外旅行や、8月は塩鯖が寝込んだり(その後私も寝込んだり)したので、手持無沙汰感が少なかったように思う。だから、無個性なマシンという感覚はすっかり抜けた。言い換えれば、作り上げた社会人メンタルが抜けたのかもしれない。

 それなのに、今またソワソワ病が発症している。きっと夏風邪が治ったからだ。何かをしないといけない、という気持ちで焦ってしまう。この焦りは「いつものループ」のひとつなので、このループに乗らないという、人生初めての試みに挑戦してもいいのかもしれない。「とにかく休め、手と思考を止めろ」というアドバイスは、きっとこれを見抜いてのことだろうと思う。

 そりゃあ塩鯖は「こいつもじゃんじゃん稼いでくれたら楽なのになー」と思っているだろうけど、がみがみと「金を稼いで来い!」とか「働かない奴に居場所はない!」とは言わない。私が勝手に「そうじゃないかな」と思ってビクビクソワソワして、目先の細かな、そして結果を生まない徒労に着手しようとしているだけだ。いや、稼いでくれたら車も余裕を持って買い換えられるのになーぐらいは思っているだろうけどね。

 本当は、違うことがしたいのだろうと思う。もし今、私が結婚していなかったら(そんな妄想はおとぎ話級に無駄だとは知っていても)、節約すれば1年ぐらい暮らせるお金をためて、小説を書くのかもしれない。それが小説になるか、なんになるのかは分からないけれど、自分の一番深い部分を描くことが、いわゆる深層心理や精神世界の物語になるんじゃないかと思っている。星の王子さまや、カモメのジョナサンや、アルケミストみたいな。ちなみに今読み始めたのはねじまき鳥クロニクル。最初からすごいものを書けるなんて思ってない、だけどすごいものを書きたいと、変に野望だけは大きかったりする。

 ここのところ、無性に幸福な王子が読みたかったので、青空文庫で読んだ。悲しくて美しい話だ。久しぶりにパウロ・コエーリョ、と思ったけれど、精神性の高さを物語に求めているのだとしたら、宮沢賢治がもっとも適しているのではないかと思う。あれは自己犠牲でも教訓でもない、ただただこの世界の事実を描いているだけだから、究極に解釈すれば仏教の経典と同じなのだ。そう、究極に精神性を突き詰めれば、宗教にいきつくと私は思っている。アプローチが違うだけで、イスラム教も、キリスト教も、仏教も根っこは同じだと。その根っこを描きたい、私は。

 想像が世界を作るならば、私は塩鯖と今住んでいるうどんが美味いところを帰る場所として、異文化の中でちょっとずつ生活(Life、価値観や視点をその場所で暮らす人に同化させて世界を見ること)しながら、毎日に発見と感動と様々な生きる価値を見て暮らしたいと思っている。

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 NHKの朝のニュースで、この時期子供の自殺が増えるといっている。「大人の皆さん、自分のころの学校生活とは違うんです」と言っていたけれど、ぶっちゃけると今の学校生活の方が温いし先生も優しい。けれど、陰湿さで言えば今の方が圧倒的に酷い。すれ違ったから殴るとか、辱めて笑うとか、そんな程度ではないのが今のいじめだろう(※補足:温いというと語弊があるかもしれない。あらゆる意味でタイプが違うのだ。ダメージを食らう場所も、与えてくる方法も。もう想像もできない)。

 でも、私は思うんだ。いじめは永遠になくならない。戦争がなくならないのと同じぐらい、人類にとって命題なのだ。だからそんなに簡単に解決しない。だからこそ、解決なんて考えずに「今をやり過ごす最良の選択」を、子供たちに勧めたらいいんじゃないかと思う。ズルしてもいいさ、サボってもいいさ、自分の存在価値をのものを否定するものからは逃げてしまえ。なぜなら、君たちはまだそんな大きなテーマに立ち向かうことができるほど、成長していないのだから。立ち向かうのはもっと力がついてからでも十分間に合う。

 姉妹三人ともにいじめられた経験を持つ私としては、いじめに耐えることから得られるものは、それほど大きなものではなかったと言いたい。いや、もちろん得られたものを過大評価しようと思えばできるけれど、そこに重きを置いてしまったら、苦行と忍耐の人生になってしまう。苦しい人生なのは生まれ持った運命じゃない。苦しさを選ぶから苦しくなるんだ。苦しさから逃げてもいい、だけど自分の本心から逃げてはいけない。

 これって寛容さを持つということは不寛容も寛容することなのか、みたいな問答に似てるね。人が多様性を持てばいじめや差別はなくなる風な主張を見ることがあるけど、多様性のひとつに「多様性を認めない」があったとしたら、多様性を認める人はそれも認めることになり、いじめや差別を認めざるを得ないのか? みたいな。

 卵が先か鶏が先かと一緒で、答えは簡単だ。卵が先。多様性云々以前に、されて嫌なことはしちゃいけない、それだけのことじゃないかと思う。

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 自分の表面の部分を書くだけでも疲れた!!

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今行きたいところ
サムハラ神社(岡山)
9/15 大阪でタマさん