生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

苗木を植えたり、地べたを這ったり

 おはようございます。定期的に書いてないことを思い出します。夜に寝るのが楽しみになっていて危険。

 さて、昨日前で苗木を植えていた。

f:id:cimacox:20210326043900j:plain

 こちらは一年生(芽が伸びた回数が1回のもの、一番小さいサイズ)を植えるのが主流。場所によっては二年生や三年生を使うところもあるそう。大きな違いは、植え付け後の育成と、身を取れるようになるまでの期間かなと思っている。

 一年生だと最初の2年くらいは実を取らず、木を育てることになる。たぶん二年生でも三年生でも最初の年は実を取らずに気を育てるのだとは思うが、苗木屋さんで育ててもらう分、二年生の苗木の方がお値段は高い。

f:id:cimacox:20210326043912j:plain

 本当に小さな苗木で、根っこなんて細くって簡単に切れそうで怖い。

 柑橘は基本的に浅く植えるそうで、これぐらいで浅植えなのだとか。倒れそうで怖いから深く植えたくなる気持ちもすごく分かる。でも、万が一深く植えてしまっても、接ぎ木の部分(柑橘の多くは台木に芽を継いで苗を作っている)より下の台木をもってググっと引き上げて浅くする。意外と強い根っこ。

 苗木を植える=苗木用の穴を掘るなのだけど、これがかなり大変だった。というのも、場所によっては土が固いのだ。圧縮ゾーンに当たると掘ってるというより削ってるという感覚すらした。

f:id:cimacox:20210326063600j:plain

 恐らくそういう場所を掘るための機械であろうものが、うちにあった。こんなもんがあるなら早く出してくれよ父上殿。と思いながらも、けっこう重いし、混合で動くものだからかなりパワフルだろうし、見ての通り凶器のような形なので私一人ではどうにもできなかったであろう。

 無事に苗木を植えることができ、そしてこの日記を書き始めて3日目の今日は雨であるから、苗木もしっかり地面に馴染んでくれているといいな、と思っている。

f:id:cimacox:20210328140639j:plain

 苗木の植え付けが終わったので、剪定ガラを埋めるために穴を掘ろうかと思っていたところ、カラマンダリンの畑でのお仕事を仰せつかった。現在のカラマンダリンの畑はこんな感じだ。実・実・実。ともかく実。

 ゆえに、この畑の中を動くにはほぼ這いつくばらないといけない。あんまり乱暴に歩くと実が落ちてしまうのだ。

 もちろん真冬に取れる温州みかんも乱暴に歩いてはいけないのだが、今年のカラマンダリンの量は度を越しているように思う。豊作なのはありがたいことなので、大変ながらも喜んでいるのだが、身体は正直なもので、這いつくばった翌日は金縛りにあってるんじゃないかというぐらい体が動かなかった。

 それもこれも、体力がないからだろうなと思っているので、30日スクワットチャレンジの二周目も200回に到達したのだけど、体力が付いたのか付いていないのかは明確ではない。明確ではないから続けようと思う。

 とにかく、体力が欲しい。

f:id:cimacox:20210328141225j:plain

 で、こちらはソメイヨシノが五分咲きぐらいで、山桜が満開なので、今回は山桜の写真を。場所によってはもう散っている。桜は寒暖差が大きくないと開かないのだとか。そして島は気温差が少ないのでソメイヨシノの開花は遅いのだとか。

 全国でコロナの感染者がりバウントしている中、愛媛は夜の街でぶっちぎりクラスター発生で、見たことがない数字をたたき出していた。この空気読まない感すごい。でも、今朝のニュースで見た上野公園。人だらけやんけ、小池さんがいくら心を痛めても、これではグラフが右型上がりのままだろうなと思った。

 私は何の専門家でもないけれど、このぐらいがもう限界なのかなと思い始めている。経済活動が云々という難しい話でなく、単に「我慢してね」の限界なのではないか、と。いんだよ、限界これぐらいなら、これぐらいでいいんだよ。でも、なんだかな。極端に「外にすら出られないわ」」っていう人から、「あ、自分気を付けてるんで大丈夫っす(と県外に花見に行く)」っていう人まで、このあっちの端からこっちの端までな感じが「全体」なんだよなあと思ったら、全体に効くもの(呼びかけや対策など)って難しいんだなって思った。

 不思議だなと思う。大なり小なり、多くの人の願いは似たようなものだろうと思うのに、足並みがそろわないのはなぜだろうね。

身体が最大の道具

 またまた一週間過ぎている。夜はもう、眠いんだよね……。今はみかんの実が木になっていないときだから、畑整備がメインの仕事。THE土いじり。家庭菜園ぐらいの可愛い土いじりなら、心身ともに癒されそうなものだけど、みかん畑が相手だと土との勝負だ。だいたい負けながら進んでいるような感じ。だって相手は土、我々の体力などぐんぐん吸収してゆく感じだ。

 これまでの仕事は別に書くとして、今日は昨日(3月13日)の仕事のことを書く。昨日は伊予柑畑にかぶさるように伸びた大きな木を切った。

f:id:cimacox:20210314062326j:plain

 この木があると、木の下になっている伊予柑の日当たりがすごく悪くなる。だから伐採してしまおうということになったのだ。この写真は遠目から撮影したものだけど、かなり大きな木。夏場なら気持ちの良い日陰になるだろうなと思うぐらい、見上げるほど大きな木。

 といっても、中心付近にある。木の裏側は耕作放棄地だけど、段々畑だから重機類は入らない。たぶん、普通ならば諦めるところだ。だけど雑木も雑草も、畑にあっていいことはない。だからこの島にいる名人に頼んで、一緒に切ることになった。

 まず、耕作放棄地の方向に伸びている枝は、チルホールを使って引っ張りながら耕作放棄地に切り倒す。これもまた、簡単そうで簡単ではない。後から理解したけれど、切り始めるときには、おおよその「切り倒すための道筋」ができていないと着手してはいけないものだった。なぜなら、畑に落とさないように切り倒すためには、必要な枝や幹があるから。

 この時点でだいたいの目測を付けて、この幹は先に切り落とすと算段を付けていたのだと思う。

f:id:cimacox:20210314063448j:plain

 耕作放棄地に向かって伸びている枝を切り落としたら、するするっと木に登って枝の上に立ち(しかも長靴で)、切り落とす枝にロープを縛り付けて一本一本枝を落としてゆく。下から見上げる分にはさほど大きく見えない枝も、地上に下すと3mや5mクラスの大きな枝でびっくりする。

 そんなサイズの木の枝だから、畑に落ちないように工夫がいっぱいある。まず、ロープのはしを、塩鯖が引っ張ってばっさり落ちないように踏ん張っている。ロープは木の枝が落下する衝撃を和らげるために、枝の股の部分を必ず通るように切り落とされる。切り落とすときも、じわじわと折れてゆくように切る。

 それでも枝はとっても重いので、枝が落ちるたびに塩鯖は何度も吹っ飛んだそう。反対側で木の枝を受け取ろうとスタンバっていた私は気づかなかったのだけど(塩鯖、満身創痍の巻き)。

f:id:cimacox:20210315063942j:plain

 そんなこんなの繰り返しで、畑の真ん中にある大木を切り倒すことができた。大きな木がなくなったので、日当たりがすごくよくなった。当たり前だけど、現実で目にするとかなり感動する。

 今回のこの仕事を見せてもらって、本当にいろんなことが勉強になった。といっても、私は木に登れないし、登ったとしても手放しで立つことなどできない。怪我するのが落ちなので真似できない。そういうことじゃなくて、実現能力のあり方というのかな、どうやってやりたいことを実現するのかということ。

 私は現実での実現能力が極めて低い。というのは体力もなければ経験もないから。逆上がりやのぼり棒でさえ「ケガするからやめとこ」と避けてきた。そのせいで、なにをどこまでしたら怪我をするかということが分からない。塩鯖は私よりはずっと現実での実現能力が高いけれど、それでも彼曰く「道具を使うからできることが多い」そうだ。

 それに比べて今の60代後半(父の年代)は、何をどこまでやると怪我をするかよく知っていると思う。それは何度も木から落ちたり、小刀で手を切ったりして、こうしたら危ないということを体で知っているからだと思う(小刀が出てきたのは、父がもんじゃ焼き用のコテを、竹から小刀一本で作ったことがあるからだ。かなり器用なんだなあと思った)。

 私はみかんの木に登ることもあるけれど(うちのみかんの木は樹高が低いので上ってもそれほど危険ではない)、体重をかけたら折れそうな枝と、実際に折れる枝と、意外と折れない枝がある。それは経験で見分ける。体重をかけた瞬間に「これはダメなやつ」と分かるのだ。それは、過去に何度か枝を折って落ちたこともあるし、つかまって折れたこともある。そういう経験が、危険かそうでないかを分けている。

 でも、私の経験など比にならないほどの実体験を、父の年代はみんな持っている。だから、「こうしたいな」が浮かんできたとして、どうしたらそれが実現できるかという引き出しが、一気にたくさん開くのだと思う。それも、道具を使うパターン、身体ひとつでやるパターン、人を頼むパターン、一人でやるパターンのいくつもの引き出しが。

 私たちの40代ぐらいは、昭和といえど道具がたくさんあった。だから道具を使って実現することはけっこうできる方じゃないかと思う(私はできんが)。それは「道具があればできる」であって、身体一つで実現するのとはちょっと違う。

 とはいえ、身体一つでできるからすごい、偉い、ということはない。道具を使ったって全然いいんだ。大事なのは「自分の、現実の実現能力がどれぐらいあるのか」を知っているかどうかだと思う。

 そういう点で、私は全く何もできない。体力もない。だからせめて体力はつけようと思って、スクワットの30日チャレンジが二周目突入している。

 どんなに憧れようと、いきなり父のように器用にもならないし、塩鯖のように道具を使いこなせる器用さも持てない。だからその器用さや実現能力を身に着けるために、まず体力をつけようと思う。そうすることが、私の可能性を広げるのだと思う(ざっと書いたので後で書き直す可能性あり)。

六畳間のピアノマン

www.nhk.jp

 2話から見て、あんまり良かったんで3話、4話を録画してて今見た。一言でいうと、あまりにもすごい、人の美しさが詰まった物語だった。

 私はもともとオムニバスが大好きだった。なぜ好きなのかなって考えたこともあったけど、理由は分からなかった。でも、六畳間のピアノマンを見たら分かった。人は、みんな繋がっているということを、体感できるからだったんだ。

 六畳間のピアノマンには、たくさんの人が出てくる。動画配信でピアノマンを名乗っている夏野誠、夏野の同僚の村沢、大友。3人が勤める会社の上司の上河内、夏野の父の夏野泰造、警察官の脇見、美味しいビールの店の店主の溝口、溝口がボランティアしていた子ども食堂の主催者村野、地下アイドルの有村。※詳しくは上のリンクから読んでくださいませ。

 直接関係のある人から、駅ですれ違う程度の人、当人同士の接点はないけれど、誰かを介して実はすぐそばにいる人。ドラマだからじゃなく、私たちは多くの人の中で生きているんだって思った。

 本当に、いつもの見飽きた風景の中にさえ、自分の知らない人生という物語がたっくさん詰まっていて、そこには涙や汗や笑顔がある。例えば、夏野・村沢・大友が深夜に居酒屋に入ってビールを飲むシーン。きっとその日が最高の一日ではなかったんだと思う。どちらかというと「ありふれた一日」だろう。でも、3人にとっては、深夜までくたくたに働いて飲んだビールは、人生で一番うまいっ!! と言い合うぐらい、美味しいビールで、3人は最高に幸せだったと思う。

 人が笑い合ったり、涙を流したり、汗をかく時間なんて、一日の内の数分かもしれない。だけど、そこに「幸せにつながるなにか」があれば、その数分は永遠かのように人の心に残り、その先の未来で、誰かの心を支えるんだと思う。

 ああ、うまく言葉にできていなくてもどかしいな。

 私は妹を亡くしているのだけど、妹との記憶を思い出すのって、だいたい本当にどうでもいいようなしょーもない記憶のことが多い。夏の夜空を道に寝転んで見たなとか、手がいつも湿っていて熱かったなとか、動物にやたら好かれるやつだったなとか、あの頃は家族が7人いたなとか。本当にただの記憶の断片。そんな記憶を思い出した後で、私はいつも罪悪感にさいなまれていたんだよ。助けられたかもしれないのにとか、私のあれがダメだったなとかって。

 でも、ああ、そういうことじゃなかったんだ。あの幸せだった時間が私にはある、それが今の私を支えてくれているんだってこと。あの幸せな記憶から何十年も経っているけれど、私は今もその記憶に支えられている、ただそれだけだったんだと思う。

 その「幸せ」っていうのは、誰かの一生懸命であって、その誰かの一生懸命に胸を打たれたり、前を向けたり、もう一度頑張ろうと思えたりすることが「幸せ」なんだと思う。そして、人同士ってそんな「幸せ」で繋がっているんだと思う。そこには、死んでしまった夏野くんもいる。死んでるとか生きてるとか関係なく、人は繋がってるんだって思う。

 そう考えたら、なんかもうハレルヤ!! 人間って愛おしい!! っていう気持ちになった。

 私は今まで、死を選ぶのも個人の自由だと自分に言い聞かせてきた。そう思わないと、妹が死んだことを受け入れられなかったんだと思う。でも、それは違ったなと思う。今はもし目の前で死にそうになってる人がいたら絶対に「絶対に死ぬな、絶対に生きろ、頑張ろう、生きるのは辛いこともあるけど、頑張ろう。私と関わったからには、私はあなたを絶対死なさない。私のために生きろ!!」って言う。言えると思う。そう言いたかった、妹にも。ああ、これが分かったことが、私にとっては人生で3回目の誕生日みたいな気持ちだ。

 最終話は自分の歌を歌いたい女の子が主人公。恵まれた環境にいて、恵まれた容姿で、歌を歌いたくてオーディションを受けまくって、受かった地下アイドルの活動もしていて、ファンもたくさんいる。一見すると恵まれている女の子に見えるのだけど、彼女がやりたいのは「自分の歌を歌いたい」ことだから、地下アイドルは違和感だらけなんだけど、何とか自分を納得させながら頑張っている。

 でもある時、あまりにも思い通りにいかないから自棄を起こして破壊行動をとり始める。それは人によってはただの恵まれたお嬢ちゃんのワガママに見えるだろう。だけど、私は、私自身がワガママだから、彼女が自棄を起こした気持ちがよくわかる気がした。

 人に迷惑がかかるんだとか、こんな無責任なことをしてはダメだとか、約束を破ってはいけないとか、人を傷つけてはいけないとか、そんなのがどうでもいい、自分だってもうどうなってもいい、今この目の前の現実がどうなってもいい、クズで最低な人間だらけのこの世界なんて壊れてしまえばいい。そう思って、実際に何もかもを壊したことが私にもあるから。

 今まで、あれは何だったんだろうなと思っていた。それが今日、分かった気がした。

 あんなに激しい破壊行動をとってしまうのは、どんな理屈や理由で自分の気持ちをねじ伏せても、自分には嘘をつけないということなんだと思う。「私は諦めていない!!!」と叫んでいるのだと思う。だからって人の道から外れることをしていいわけではないから、破壊行動にはそれ相応の代償はあると思うけど、その代償を払ってでも、目の前の現実を壊すことが必要だったんだと思う。たぶん、それまでの自分を壊すために。

 まぁ、そう考えたら本当に迷惑な人だよね、こういう巻き込み型の自己中な人(私もだけどね)。でも、全くの自己擁護だけど、そんな風に不器用にしか生きられない時期がある人もいて、いろんなものを壊して、迷惑をかけて、時には傷つけて、初めていろんなことが分かるんだと思う。ああ、本当に迷惑だなって書きながら思うけど。でも、巻き込まれることで運命が動き出す人もきっといると思う。

 ごくごく当たり前に、人にはそれぞれ人生があって、語られないストーリーがあると思っていたけど、こんなに生々しくリアルに、人間って愛おしいと思えたのは、初めてかもしれない。それは、私の個人的な「今」というタイミングがそうさせたのかもしれないけど、そんな神がかったタイミングでこれを見れたことが、もう運命だなと思った。

 かなり思い付きメモみたいになってしまったので後ほど書き直すかも。本当に最高のドラマでした。