生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

こけた

 こんにちは、今日は雨。今年愛用していた夏草履はそこがつるつるで、雨の日は良く滑る。ということで、滑ってこけた。膝強打、痛い。

 昨日は岡山の吉備津神社に行ってきた。吉備津の釜の吉凶占いもやってきた。なんとも不思議で楽しい経験だった。吉備津神社の釜は黒田官兵衛も来たことがあるそうで、それはそれは古いいわれがあるのだという。今の時代の私たちが何を驚愕するかって、そりゃその釜が今なお変わらずそこにあることだよね。

命は捕らえた温羅の首をはねて曝しましたが、不思議なことに温羅は大声をあげ唸り響いて止むこと がありませんでした。そこで困った命は家来に命じて犬に喰わせて髑髏にしても唸り声は止まず、ついには当社のお釜殿の釜の下に埋めてしまいましたが、それ でも唸り声は止むことなく近郊の村々に鳴り響きました。命は困り果てていた時、夢枕に温羅の霊が現れて

『吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をしてミコトの釜殿の御饌を炊がめよ。もし世の中に事あれば竃の前に参り給はば幸有れば裕に鳴り禍有れば荒らかに 鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん』

とお告げになりました。命はそのお告げの通りにすると、唸り声も治まり平和が訪れました。これが鳴釜神事の起源であり現在も随時ご奉仕しております。

 温羅とは吉備津に伝わる鬼のこと、桃太郎伝説の土地。釜が鳴ったら吉、鳴らなかったら凶というシンプルなもの。私はとても大きな、飛行機の離陸音みたいな音が難段階にも分かれて聞こえてきたけれど、鳴らないときは鳴らないし、鳴っていても聞こえないということもあるのだそう。

 祈祷と吉凶占いはセットです(というか、おまけ?)。






 そういうわけで吉備津神社のお札を頂いたので、さっそく壁にウォールラックを付けて簡易神棚にした。水・酒・榊・塩などなどは追々そろえる予定。神事ごとや仏具に関してはこだわりだすときりがないので粗相がない程度でいいんじゃないかと思う、ゆるい信仰心です。

 にしても、膝が痛い。否、もう痛くはない。ただびっくりしすぎただけだ。

大阪行ってきた

 おはようございます。大阪ね、大阪。大体通過点だよね。でも太陽の塔の内部公開は一度見ておきたいと思っているけども。子供ながらに「あれぐらいなら子供ができるぜ」と思ったけれど、大人になったらわかるね、桁が違うよ、格が違うよ、生命力が今なお感じられるよ、すげーなー。

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 私は遠出が本当に嫌いで、すぐに家に帰りたくなる。昨日も香川の駅で電車を待ってる時点で帰りたかった。電車に乗ったら胃が痛くて、そのうち治まると思っていたけど全然で、結局家に帰るまで胃が痛かった。なんてこったい、昼飯も食えなかったよ。

 けれどそんなにしてまで会いたかったのは、ヒプノセラピストのタマさんだ。この人のセラピーがすごい、とかじゃない。前回もほぼ直感で「行くしかない!」と思っていったけど、想像以上の大きさに感動したんだ。今回はその存在のそばで日向ぼっこをしたくて行ったようなもの。もちろん得たこともあるので実践するけれど、なにより会って、ハグしてもらったものが大きい(私は基本的に塩鯖と甥っ子としかハグなんてしないんだけどな)。

 道中で、カモメのジョナサンを読んだ。なんだっけかなー、確かカモメがより速くより高く飛ぶ小説だったような気がするんだよなー、と思っていたけど、ちょっと違っていた。崇高なんだけど崇高じゃないというかね、うん、なんかこう解析しなくていいわこれ、必要と思ったら必要なところを読めばいい、だから手元に置いておくべき本なんだなって思った。人によってはこれが星の王子さまなんだろうけど、私あの本全然意味わかんなくてね。最強の一人遊びのプロみたいに思っちゃってダメなんだよね。

かもめのジョナサン 完成版 (新潮文庫)

かもめのジョナサン 完成版 (新潮文庫)

 感性は人それぞれだと重々分かっているのに、どうしても「ちょっと違う自分ダメかも」と思いがちだ。星の王子さまも分かんないし、無償の愛ってのも、なんで愛に無償を付けないといけないのか分かんないし、じゃあ有償の愛ならいいのかっていうとそれも全然違う、なんで有償だの無償だの言うのよもー、あんたバカー!? って思う。どっちでもいいことを、かっこよく言葉で言うとみんな「へー!!」って思うところはある。いちいちに、反応するのが面倒になってきた。

 システムエンジニアの20年間を思い出す。バリバリ働いてたよ、私。地球終わらないかなー、デスノートどこにあるんだろうーとか言いながら、結局私はデータを、システムを愛してた。人の役に立ちたいんじゃない、それらを大切に扱うことが結局人の役に立ってただけのことだった。ただ、データやシステムは人の役に立つためにあるわけで、人に愛されるためにある存在ではないから、あんまり分かってもらえなかっただけ、そしてそれでも何の支障もなかっただけだ。

 今はそうね、より理解されにくい場所にいるように思うけど(それは寂しいことかもしれないが、支障はないわけだ)、あのころのようなデータこそ目の前にはないけれど、世界はデータであふれている。なんだ私は大好きなものに囲まれてたんじゃないか、というのが今の気持ちだ。SF小説の角で頭打って昇天したみたいなこと言ってるけど、まぁかなりまともです。

www.1101.com

 これを読んで、洞窟いいね、洞窟暮らししたいね、リアルじゃない洞窟のね、と思った。リアル洞窟は恐怖ですから(でも見たい)。

逝ってしまわれた

 メインパソコンが昨晩から起動しません、おはようございます。塩鯖は無事に帰ってきて、仲良くご飯食べたよ。いつでも仲良しだよ。

 メインパソコン、どういう状況かというと、ひたすらブルーバックと修復と再起動の繰り返し。これはもう、デジタル離れしろってことかい、と思えてくる。悪夢のようだ。

 私にはパソコンの電源を切らないという悪癖がある。更新プログラム等々で電源を切ることがあっても、必ず起動して確認する。新しいパソコンでも古いパソコンでも必ずやる、会社のパソコンでもやった。パソコンは生物ではないのだ、だから一度寝たら起きなくなる可能性は、生物のそれよりはるかに高いのだ。

 今時はクラウドストレージが主流なので、例にもれず私もほとんどのファイルをGoogleDriveにぶっこんでいる。そしてメカニックではない私は成果物ばかりが財産だ。なので最悪パソコンが飛んでも、成果物が生成できないだけで、過去の遺産が消えるわけではない。というわけで、黒鼠(パソコンの名前)のハードに依存しているものだけが分かっていれば、初期化したって良しといえば良しなのだ。

 いや、クラウドストレージに入りきらないデータは泣くな。やっぱりクローン作っておくほうが無難だ。

 いつまでたっても物理データから逃れられない。いや、正確には物理ではないし、思い切りよく捨てればいいものかもしれない。写真のバックアップだけは取っておくか。

赤福風、サツマイモ餡

 おはようございます、ずっとガタガタ何かしている。忙しい。っていうか鑑定が終わらない。私が無能になったのか、否、相手が壮大なのだ。

 実家からもらったサツマイモが3本あった。カボチャもジャガイモももらっていたので、芋尽くしになるじゃんと思ってまだ使っていなかった。でもそろそろ使わないと、いつものようにダメにしてしまうと思って今日はサツマイモ餡を作った。早朝から、ええ、朝6時からね。

 サツマイモ餡は茹でてつぶして砂糖を混ぜて終わりでもいいものだ。長期保存するのでなければ、砂糖もそれほどいらんだろう。しかしその作り方ではどうしてもツブツブするし、繊維も残るし、滑らかさに欠ける。フードプロセッサーがあれば早かろうが、うちにはその文明の波は来ていない。ということで、茹でて、裏ごしして(これでも十分滑らかなのよ)、水にさらして、煮詰めてゆくという方法を取った。

 結果、とても美味しい餡ができあがった。滑らかなことこの上ない。上質な栗きんとんのアレだ。今回はパンに使うのでバターも入れてちょっとスイートポテト風にした。味に関しては本当に申し分ない。

 問題となったのは作る過程だ。想像してごらん、ゆるゆるのでんぷん質が煮詰められることによってクツクツ、フツフツとなってゆくさまを。飛び跳ねてくるのが熱いのなんの。キャミソールなんかでやるんじゃなかったクソ指先に散ったら死ぬほど熱い。途中から上着を着て、ゴム手袋をして、盾にフライパンの蓋を持って、火にかけた鍋をゴムベラで練り練りしていた。魔女のクッキング。

 弱火でやったんだけどしっかり飛び散ったね。でもここでしっかり練らないと照りがでないのだ。照り、ああ、パンに織り込むのに照りはいらなかった……(今気づいた)。

 というわけで、これからサツマイモ餡を織り込んだパンを作る。明日の朝、塩鯖と一緒に食べる用。今から明日の朝が待ち遠しい。

※無駄に手間をかけることによって若干脳みそが逃避していたのだと思う。

塩鯖、出張に行くの巻

 おはようございます、塩鯖観察日記かこれ。

 腰はかなり良くなったみたいです。ロキソニンテープすげぇ、リリカすげぇ。でも、根本的な部分は治ってないから、騙し騙しなんだろうな。身体ってそういうところがたくさんあるんだろうな。

 実は今週、来週共に忙しい。今週はセッションが1つ、その後大阪の講座に行く。大阪講座までに仕上げる鑑定が2つ。週明けは毎月受講している講座1つ、よもぎ蒸しと足つぼ。その後、塩鯖2連休。大忙しで9月の後半に突入する。まさかまさかのスケジューリング。なので塩鯖が出張と言えど忙しくやっております。

***

 朝ドラは半分惰性で見ているが、せごどんと比べるとどうしても不安定で「しょぼい」と感じてしまう。私の場合、主人公に感情移入できるかどうかがカギ。まったくできない……なんであんなに学ばない、失敗を失敗のまま「良し」とする人が主人公なのだろう。そもそも、離婚の理由だって自分にも非があるだろうに、すっかり忘れて爽やかな人生的なのがいけ好かない。自分が夢を諦めたからって、旦那にそれを強制するって、愛だのなんだの以前の話しだと思うんだ。

 というわけで、圧倒的にせごどん推し。あんなに感動した薩長同盟は見たことがない。泣いた、全オレが泣いた(古)。っていうか、幕末ものはいくつも見てきたけど、実は「薩長同盟っていつの間にか締結されてたよね」感が強かったんだ。歴史が分かって良かった。

 といっても、これもまた人が作った話であって、正確かどうかはまた別の話しだということも重々知っている。いやでも桂さんとか岩倉具視とかね、重要らしいが具体的に何した人か知らなかったからね。歴史で勉強したっけか? 

 林真理子先生、本当に改めて見直しました。読めてない小説読みます。

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 北海道が氷点下を記録したそうだ。こちらも朝の気温が20度を下回る時もあるほど気温は下がってきた。けれど、氷点下ってもう冬じゃないか、冬じゃないと氷点下っていかないわよ。北海道、やっぱり北にあるんだな。温かい炊き出しにピンと来なかったけれど、本当に必要なんだと思った。ボランティアさんたち、ありがとうございます。

 意外と大丈夫と思っていても、心は意外と傷ついている。この程度のことで怖いとか、思いますよ地震だもの。夜にトイレに行けなくなることだって、あると思うよ、天災だもの。人の力は一瞬の天災のエネルギーには到底かなわないだろう。だけど、その大地の上にもコツコツと作り上げることができるのは人間だけです。健康な心で、作り上げていきましょう。私も北海道旅行、また必ず行く。

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 おお、アムロちゃんそういえば引退だね。同い年なのでまさに私の青春でもある。アムラーになれるほど垢抜けてはいなかったけれど(ロングコート+ブーツはやったなあ)、本当にこの人いろんな意味で凄いなあって思う。今はかなり素直にそう思える、私も年を取ったな。だからこそ素直に思えるんだろうな。とてもじゃないが、この年齢であんなに動けないし、これで人一人育ててるんだし、どっかーんと売れて相当怖かっただろうし、だけど復帰の場所で素直に泣けるんだからね、ファンの期待が彼女を作ったといっても過言ではないだろうし、それを受け止めてきた安室奈美恵という人の器と努力は、尊敬以外の何物でもないなと思う。

ぎっくりんぐ

 おはようございます。油断すると一日が終わります。塩鯖、ぎっくりんぐに苦しんで早10日ほど。さすがに尋常ではないと判断し、昨日病院に行ってきた。そこでもらった鎮痛剤が効きすぎて塩鯖が起き上がれない。

 塩鯖は毎日薬を飲んでいる。会社の健康診断の血液検査では要治療が出るほど(しかし、かなり数値的にはマシになったから退院して日常に戻っているわけなので、なんとも言い難いが)腎臓や肝臓に負担がかかっている。だから少しでも臓器に優しい薬となったそうだが、腎臓に優しくても昏睡してしまうのは困ったものだ。

 睡眠導入剤より良く効くと思うよ、人によっては。副作用にも「眠気、ふらつき、めまい」とあるが、これはお決まり文句のようなものだからなー、ここまでとはなー。

***

 今週、来週はちょっと忙しい。感情面の変化があって、まだまとめきれないので書かないけどいつか書くけど、だから忙しくなりそうって思ったら、現実も忙しくなってきた。そんな中、ここに行きたいと思いついた。

吉備津神社

 雨月物語吉備津の釜に登場する神社。私、本当にこの物語が大好き。怪談として描かれることも多いけれど、なんかなー、もっと違う感じがあるんだよ。磯良が可哀そうとか、そういうレベルじゃないんだな。ヴェネチア映画のうたい文句にありそうな「愛が憎しみに変わる時」とかいう感じでもないんだよな。たぶん日本の物語でないと語れない悲哀と滑稽さがビンビンくるんだよね。

改訂版 雨月物語―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

改訂版 雨月物語―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

 ここと、サムハラ神社だな。塩鯖のぎっくりが治ったら行きたい。

ああ、うっかりやっちゃった

 また日が空いた。こんにちは。

 一週間ぐらい前から塩鯖が「腰が痛い」と言っていて、つい一昨日のこと「ようよう腰がたたん」になってしまったので、介護体制に入ってテレビを見ていなかった。整体でテレビを見て驚いた、北海道大変なこと。私が愛読しているブログの方が北海道だから慌ててメールしちゃったが、電気がヤバイって言ってるのにメールとか! 箸も出さずに熱々のラーメン出すようなものだよ! ごめんね、でもお返事ありがとう。無事で何よりです。

 今年は台風や雨が降るだけで洪水が起き、一難去ってまた一難のような気象と自然災害だなと思う。南海トラフ地震も言われ始めて早何年? たぶんこの近所の人々は備蓄とか緊急セットとか持ってない人は多いと思う。でもさすがに今回のことを見て、水と缶詰ぐらいは常備しておいた方がいいなと思った。あまり仰々しくセットを作っても使いこなせる自信がないしね。超インドアな二人がアウトドアセットそろえたところで、誰かの役に立つかもしれないが自分たちが使いこなせなかったら残念ではないか。

 先日の台風も雨はあんまり降らず、風ばかりが強かったのだけど(風が強いと瀬戸大橋が通行止めになるので電車も止まります。だからニュースで見ると大騒動みたいだけど、本州よりは騒動が起きない)、何度となく警報が鳴るので「避難所か……」と頭をよぎった。うちの避難所は、我が家よりも海抜が低く、さらに川に近い。避難しに行くのか遭難しに行くのかきわどいところなのだ。絶対この地域の避難所って「人が入るところ」チョイスで道中のこと考えてないよなって思う。

 ローカルニュースでしか知らないが、高知県地震による津波の被害が想定されるところだから、避難所等々の出来がすごくいいように思う。実際に行ってどうなのか、行く経路はどうなのか、日中人口と夜間人口の差をどのように埋めるのかとか、かなり本気で考えられているなと思う。

 自然災害の少ないうどん県の意識の低さよ。私も漏れなく入っているけど、ちょっとヤバイかもしんないぜ。だから缶詰だ、鯖缶だ。

***

 腰を痛めた塩鯖を整体に連れて行った帰り、なんと警察にお呼ばれしてしまった。うちのマンション前は制限速度30キロ、よく人が捕まっているのを見ていた。えっ、捕まるほどスピード出していないけど?! と思ったら、一時停止だった。地味に二段階の一時停止があるのよ、近くに。あー、くっそー、気持ちは止まって車は動いてたわ。悔しいけれど仕方がない。

 その後家に帰って何度も「これから捕まった人を見たら『心中お察しします』って祈るわ」と言ってる自分がいた。驚くほど動揺していたな、と今なら思う。

マビノギモバイル版だと…

 おはようございます。ネトゲ廃人の異名を勝ち取ったゲームがモバイルになって甦るそうです。FLOと変わらんといえば変わらんのだけど、どうしてだかこういう「戦闘だけがレベル上げじゃない地味なゲーム」が好き。もう苦行でしかないようなものなのに。

 一昨日の夜、なぜかまた発熱したので養生してすぐに寝て、翌日も油断すると寝るみたいなおかしなリズムの一日を終え、今朝はまともに起きられました。考えられるのは知恵熱と脳みそのオーバーヒートかな。「考えない」が上手くできないので、肉体的に強制終了掛かったみたいな感じ。

 そろそろ終わりの冷やしうどん、香川だけでしか見ることがないそう。ざると違って器にはった氷水の中にうどんを入れてるメニュー。昨日はこれで過ぎ行く夏を惜しんだ、つもりだったのだが! 今日しこたま暑いじゃないか。毎年こんな夏だったら人間は徐々に淘汰されるだろうよ、植物の水やり時間も「みんなが起きる午前中♡」みたいなこと言ってらんねえ。

 今年の夏、ずっと苦しんでいる顔面のかゆみ。顔面って言っても目の周りと唇、指の汗疱だけなんだけど、治ってはぶり返し、治ってはぶり返し。ステロイドは魔法の薬ではあるが、原因不明のまま表面的に治すだけだからこうなんでしょうね。原因がさっぱり思い浮かばない。

 昨日は久しぶりに本を買った。カモメのジョナサン(完全版)とスティーブン・キングの書くことについてという本。昔小説を書いていたころに、村上春樹スティーブン・キングを読んでいない奴はしゃべるなみたいな人がいて(そのほかの作家で実にレパートリー豊かにそういうハードルを課す人はたくさんいた気がする)、一生懸命読んだ記憶がある。読んだからといって、その人と対等に話せた記憶は一切ないけれど。

 そもそも、小説を書くだとか語るだとかに条件なんてない。古典文学を読んでいようといまいと、語りたければ語ればいい。読後感の共有はあくまでおまけで、言葉にすらできない「受け取るもの」があるから本を読むんだと思うからさ。

 今日は報告だけみたいな日記で終わり。一昨日からボイコットしてること全部やっちまうぜー(掃除とか洗濯とかな!)。

戦いってなんだろうね

www.nhk.or.jp

 実家に帰省して昼ご飯を準備しているとき、この番組がテレビから流れていた。タテカン、まったくなじみがない。なので最初は何を言っているのかなと思っていたけれど、家族4人、女はご飯の準備をしながら、男はつまみ食いやビールを飲みながら、誰かが「で、これなに?」っていうと「京都大学の伝統らしいよ」みたいな会話をしながら理解していった(こういう雑なテレビの楽しみ方が一番好きだったりする)。

 その文化や歴史を知らなければ、当事者たちが抱える重さなんて分からないわけで、その重さというのは結局番組の終わりあたりで分かったのだけどね。要するに、京都大学の伝統である立て看板を、行政指示で撤去ということになったけれど、京都大学生が反発している一連の騒動をドキュメンタリーとしてまとめたのがこの番組であった、ということ。

 いい大人になってしまった私は「行政措置ならば、従うべきでしょうに。それでしか自己表現できないなんて思い込みで、行政に迷惑をかけながらやることでもないでしょうに」と言った。物わかりのいいダメな大人の典型的な意見みたいだ。20代の私なら「いいや、タテカンこそ伝統の自己主張なのだ。表現の自由を! ファシズムに屈しない! オレは日本を変えるんだ!!」ぐらいに言ったかな、いや、言わないな(もっと地味な抵抗をネットで繰り広げるだろうね)。

 日本は平和だなーなんて思いつつ、番組を聞きながら料理をしていた。タテカン=自己主張が法律という社会システムの壁に邪魔されることが気に入らないだけだろう、やりたいことがやれないという状況が、彼らにとっては学生運動並みの戦いなのだろう。人も死なない、機動隊も出ないけれど。

 一瞬の反発心を長引かせると、目的を見失う。学生運動だって、死人が出たし、中には共食いみたいなことが起こったけれど、終わった瞬間社会システムに屈するべきだったかのように、未来の安心のための勉強を始めたそうだし、第二次大戦後だってわだかまりを抱えた人たちがいながらも、復興や未来に向けて反発していたものに飲まれていった。それと似ているんじゃないか。

 この例えは暴力的かもしれない。けれど、学生運動も第二次大戦も経験していない私にとってのそれは、社会に上手く迎合できない若者の怒り、迎合なんてしてやるもんかと思いつつ、パンク魂だけでは食うにも困り、いつまでも反抗できないんだってどこかで分かってる自分へのいら立ちと似ているような気がしている。

 番組の中で、タテカンで対抗している生徒の一人が「なぜタテカンじゃなければダメなんだろう?」という質問に対して、すぐに返事ができなかった。数日後(であろう)彼はこう言った。

「タテカンじゃなくてもいいのかも」

 片手間ながらテレビを聞いていた4人は、一斉に吹き出してしまいそうだった。(じゃあその抵抗はなんだったんだ! と思うけど、目的が反発にすり替わってしまっただけのこと。彼らは賢いので、反発という方法だけでなく、行政や法の側に回って変えることができることぐらい、分かっていると思うし)

 この一件は些末なこと、と言ってしまえばそれまでだけど、事実これは戦いだったのだろうと思う。私が戦おうと思わないこと、だけど誰かは戦おうとすること。そこですでに戦いは起こる。

 景観だけのために様々が規制されて息苦しくなるのは確かに自由からはかけ離れているように感じるだろう。だけど、たったそれだけのことで奪われるものではないのが自由だろう。少なくとも今の日本は、自由だと思っている。法というルールの中にいることは、決して息苦しいだけではないし、けれど時代とともにルールも変わるべきだとも思っている。戦いを持ち出さなくとも、柔軟さで解決できることはある。でもきっと、戦いによって勝ち得たい人もいる。だから戦いはなくならないんじゃないか、とも思う。

 まったくもって堂々巡りの無駄な思考遊びだけど、ここにね、なんかあるような気がする。

パワー不足か休憩不足か

 おはようございます。休み休みなのは体調不良ではなく、気づいたら一日が終わるからです。FLOは変わらずやっているけれど、塩鯖がいない時間にやりこむのは違う気がして、日中は「今の自分ができること」をしようとしている。”しようとしている”というのも、し終えることもあれば、し終えないこともあるからだ。

 今受けているセッションで、厳しい言葉をかけられた。自分でもわかっていて、自分でも言うことがあったけれど、人に言われるときついなーと思う。きっと、他の人から言われても「へー」で済んだであろうが、大なり小なり頼りにしている人にそう指摘されると、何もかもを放り出して冷たい海にじゃぶじゃぶ入りたくなる。あるいは、暑い日に熱い風呂で昼寝とか。概ね、追い込み型。

 そう、追い込み型にもタイプがあることを最近知った。私は疲れ果てると塩分を摂取したくなるのだが、塩分は身を引き締める、自分を鼓舞したり叱咤したりするときに摂取したくなるものだそう。主に肉体疲労のピーク時に起こるので、さらに追い込みたい、というわけだ。追い込んだことで何か残るならまだしも、過ぎた塩分は体調を崩すだけ、浮腫んで指輪が食い込むだけだ。なんかこう、いつも的外れな気がしてならない。

 ちなみに指摘されたのは「あなたは人をジャッジするから、今の仕事ややり方では結果に繋がらない」ということだった。カチンと来たけれどきっと事実だろう。この社会の合理性に沿った判断のもとで違和感や疎外感を抱かずに生きていくことが「うまくやること」だと思っている。だから欲望のままに失敗するを人を見ると「だから助言したのに」と思ったりすることがある(この点を「ジャッジ」と指摘された)。

 でもそれは私がそう思うことであって、ほかの誰もがそう思うものではない。私が失敗と思っても、他の人は失敗と思わないかもしれないし、失敗したっていいやと思っているかもしれない。私も失敗したっていいやと思うことはあるけど、生理現象に関してはかなり厳しいのかもしれない。自分は生理現象のコントロールがすごく下手だからすごく気を使わないとできない、と思っている節はある(だから突発的な遠出とか怖い)。

 正直なところ、人に対して寛容になるということが、私には分からない。というか、数少ない友人、家族以外の人間関係をほぼ持っていないので、そういう人たちとの接し方や、存在そのものがあまり理解できない。そうした点を踏まえると、寛容なのか不寛容なのかもわからないのが正確なところだろう。そして、そんなのどっちでもいいや、と思っている。

 話を戻して。追い込んだり過剰摂取したりするときは、決まって何かが圧倒的に不足しているのだと思う。きっと爪噛みクセも同じ理由。だから補おうと過剰摂取してしまうのだろう。今は、休んでおくのが最良の選択なのかもしれない。というのも、そう言われたからそうなのかなあと思っているだけな気もする。

 私自身、とてつもなく貧乏性で二重人格で両極端だなと思う。職場に行って働くということは、プライベートの自分を封印しなければできないと思っている。本当はそんなことないと分かっているけれど、なぜかビジネスの場というだけで恐ろしく身構えなければ辛い。きちんとしたところを見せる場所だと思っているのかもしれない。両極端なので本気でプライベートの「好きなものがある自分」を封印する。だから仕事中の私語すらできない。こちらのプライベートを明かすことがないので、相手のプライベートを見ることもなく、気づくと無個性なマシンみたいな日々を送る。だからずっと空虚でイラついているのが社会人メンタル時のプライベート。

 そんな輪廻から解脱したと感じたのが去年の9月。最初のうちはソワソワしたけれど、12月からは家業の手伝いが入ってきたりしたし、海外旅行や、8月は塩鯖が寝込んだり(その後私も寝込んだり)したので、手持無沙汰感が少なかったように思う。だから、無個性なマシンという感覚はすっかり抜けた。言い換えれば、作り上げた社会人メンタルが抜けたのかもしれない。

 それなのに、今またソワソワ病が発症している。きっと夏風邪が治ったからだ。何かをしないといけない、という気持ちで焦ってしまう。この焦りは「いつものループ」のひとつなので、このループに乗らないという、人生初めての試みに挑戦してもいいのかもしれない。「とにかく休め、手と思考を止めろ」というアドバイスは、きっとこれを見抜いてのことだろうと思う。

 そりゃあ塩鯖は「こいつもじゃんじゃん稼いでくれたら楽なのになー」と思っているだろうけど、がみがみと「金を稼いで来い!」とか「働かない奴に居場所はない!」とは言わない。私が勝手に「そうじゃないかな」と思ってビクビクソワソワして、目先の細かな、そして結果を生まない徒労に着手しようとしているだけだ。いや、稼いでくれたら車も余裕を持って買い換えられるのになーぐらいは思っているだろうけどね。

 本当は、違うことがしたいのだろうと思う。もし今、私が結婚していなかったら(そんな妄想はおとぎ話級に無駄だとは知っていても)、節約すれば1年ぐらい暮らせるお金をためて、小説を書くのかもしれない。それが小説になるか、なんになるのかは分からないけれど、自分の一番深い部分を描くことが、いわゆる深層心理や精神世界の物語になるんじゃないかと思っている。星の王子さまや、カモメのジョナサンや、アルケミストみたいな。ちなみに今読み始めたのはねじまき鳥クロニクル。最初からすごいものを書けるなんて思ってない、だけどすごいものを書きたいと、変に野望だけは大きかったりする。

 ここのところ、無性に幸福な王子が読みたかったので、青空文庫で読んだ。悲しくて美しい話だ。久しぶりにパウロ・コエーリョ、と思ったけれど、精神性の高さを物語に求めているのだとしたら、宮沢賢治がもっとも適しているのではないかと思う。あれは自己犠牲でも教訓でもない、ただただこの世界の事実を描いているだけだから、究極に解釈すれば仏教の経典と同じなのだ。そう、究極に精神性を突き詰めれば、宗教にいきつくと私は思っている。アプローチが違うだけで、イスラム教も、キリスト教も、仏教も根っこは同じだと。その根っこを描きたい、私は。

 想像が世界を作るならば、私は塩鯖と今住んでいるうどんが美味いところを帰る場所として、異文化の中でちょっとずつ生活(Life、価値観や視点をその場所で暮らす人に同化させて世界を見ること)しながら、毎日に発見と感動と様々な生きる価値を見て暮らしたいと思っている。

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 NHKの朝のニュースで、この時期子供の自殺が増えるといっている。「大人の皆さん、自分のころの学校生活とは違うんです」と言っていたけれど、ぶっちゃけると今の学校生活の方が温いし先生も優しい。けれど、陰湿さで言えば今の方が圧倒的に酷い。すれ違ったから殴るとか、辱めて笑うとか、そんな程度ではないのが今のいじめだろう(※補足:温いというと語弊があるかもしれない。あらゆる意味でタイプが違うのだ。ダメージを食らう場所も、与えてくる方法も。もう想像もできない)。

 でも、私は思うんだ。いじめは永遠になくならない。戦争がなくならないのと同じぐらい、人類にとって命題なのだ。だからそんなに簡単に解決しない。だからこそ、解決なんて考えずに「今をやり過ごす最良の選択」を、子供たちに勧めたらいいんじゃないかと思う。ズルしてもいいさ、サボってもいいさ、自分の存在価値をのものを否定するものからは逃げてしまえ。なぜなら、君たちはまだそんな大きなテーマに立ち向かうことができるほど、成長していないのだから。立ち向かうのはもっと力がついてからでも十分間に合う。

 姉妹三人ともにいじめられた経験を持つ私としては、いじめに耐えることから得られるものは、それほど大きなものではなかったと言いたい。いや、もちろん得られたものを過大評価しようと思えばできるけれど、そこに重きを置いてしまったら、苦行と忍耐の人生になってしまう。苦しい人生なのは生まれ持った運命じゃない。苦しさを選ぶから苦しくなるんだ。苦しさから逃げてもいい、だけど自分の本心から逃げてはいけない。

 これって寛容さを持つということは不寛容も寛容することなのか、みたいな問答に似てるね。人が多様性を持てばいじめや差別はなくなる風な主張を見ることがあるけど、多様性のひとつに「多様性を認めない」があったとしたら、多様性を認める人はそれも認めることになり、いじめや差別を認めざるを得ないのか? みたいな。

 卵が先か鶏が先かと一緒で、答えは簡単だ。卵が先。多様性云々以前に、されて嫌なことはしちゃいけない、それだけのことじゃないかと思う。

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 自分の表面の部分を書くだけでも疲れた!!

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今行きたいところ
サムハラ神社(岡山)
9/15 大阪でタマさん