生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

深夜の料理番組

 おはようございます。早寝したら早起きする、当然の摂理です。昨日の夜から降り続いている雨が、いまだにドバドバ降っています。雨の少ないうどん県でこんなに降るのは珍しい。けれど、ここの水瓶はもう溢れそうだと思うわ(小さい)。

 GYAO孤独のグルメSEASON7を見ています。塩鯖のお気に入りの番組ね。先日プロジェクターを買ったので、Amazon系の動画配信はプロジェクターで見られるのだけど、GYAOは映らない。だからスマホの小さな画面で頑張ってみてるんです。しかも私のiPhoneは落としてヒビが入りまくってるので、ヒビの向こうにゴローを見ることになります。多少不便。もう防水とは呼べないiPhone

 テレ東の番組は、そもそもリアルタイムで見ることができない地域。だからこれが深夜に放送されてるって聞いて、なんてひもじい!! と思った。夜中にこんなテロを仕掛けられたら、絶対お菓子とか食べちゃうよね。

 夜中テロを見て思い出すのは、二十代のころのアルバイト生活だ。だいたい17時から23時ぐらいまで、週5ぐらいのバイトに出ていた。食っても太らない黄金時代ではあるが、ほぼ食ってなかったあの頃。バイトがちょっと早く終わって帰宅すると、22時からのバラエティで食い物が映っていることが多かった。疲労と腹減りには辛い、だけどチャンネルも変えられない(美味そうだから見たい)。バイト帰りにメシでも買って帰ればいいものを、食費はまず削るものと思っていた健康優良児なので、健康的にひもじい思いをしながらビストロスマップを見ていたものだ。

 そんな時代が塩鯖と結婚するまで続く。

 思えば、食事に楽しみを見出さなくなったころは痩せていたように思う。食えればいいし、栄養補給できればいい、程度にしか思っていなかった。パン作りを習得したのもこのころだが、なんてことはない、安くあげたかっただけだ(その割に本気になったけれど。だって安く上がるからさ)。

 それでも、深夜の飯テロに遭遇すると、時々コンビニまで走ることもあった。だいたい無性に食べたくなるのはナポリタンとか、カレーとか、分かりやすい料理ばかりだった。今でこそコンビニも商社のおかげで品数が充実しているが(レトルトも多いもんね)、それほど品数も多くなく、そもそも深夜なんてお弁当系はほぼ売り切れが多かった。だからコンビニを数件梯子することもざらだった。

 太りたくない女子にとって、深夜のナポリタンやカレーは刺激が強すぎる食べ物で、実際に食った後は満足だけども胃にもたれちゃったぜ、と思いつつ胃薬を飲んで寝るのが常だった。効率がいいのか悪いのか、だ。


 いつぞやのナポリタン。ナポリタンは作ることにしている。豆板醤を入れると美味しい。

 そんなことを思い出しつつ、孤独のグルメ韓国編を見ていた。韓国では小皿がわんさか出てくるそうだ。全部綺麗に食べるのが礼儀の日本人、無限ナムルに苦しんだ人も多かったんじゃないかと思う。韓国だから食材は日本とさほど変わらないのに、小皿の中身はとっても興味深い。いつか韓国にも行くのかなーと思いつつ、孤独のグルメ、ゴロー食いすぎだよ絶対、松重豊さんお体お大事にね、っていつも思ってしまう。

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 最近はネッフリを解約したのでAmazonプライムばかり見ている。ドラマはネッフリと思っていたが、Amazonプライムも相当面白い。けれど広告がけっこう邪魔でね(といっても、ようつべやGYAOもしっかり広告が入るので、これが世の常になったわけだが)。広告で頻繁に目にするバチェラーという番組。ねるとんのえげつない版だろうか。人の色恋に興味がないので見ないつもりだけれど、本当にもう、こういうの好きな人は好きだよね。

 人間関係に駆け引きも必要って思うのは、仕事においての対外的な交渉ぐらいのものだろう。駆け引きっていうか、バーターだよね。そもそも仕事でも恋愛でも、誰かを踏み倒したり出し抜いたりして自分だけ得をしようなんて考えたことがない。そういうメンタルはバブル(1990年代)の産物かも。

 ちなみに今はBOSHを視聴中。

三木清『人生論ノート』を読む

三木清『人生論ノート』を読む

三木清『人生論ノート』を読む

 100分de名著シリーズは読んだことがないけれど、たぶんそれよりは読みごたえがあると思う。けれども、読みにくいわけではない。途中、途中で熱さを感じる。それは三木清の熱でもあるし、岸見一郎さんの熱でもあろうと思う。

 最近、私が好んで読む著者たちは同じ哲学(思想)のもとで生きてきた人ばかりだなと思う。いや、同じに見えるのは私が同じところばかりに感銘を受けるからだってことは知っているけど、そればかりではないと思う。

 検閲が厳しい時代に書かれた本だ。自分の意志よりプロバガンダを書かされていた時代だ。ああ、そうだなあ、そんなことを書かねばならないなら、私は筆を持つのを辞めるだろう。たとえこのサイトのような、超個人的なものでさえ検閲され、書き直されるぐらいなら削除する。でもそれってすごくヤケクソの行動だよね。頭を絞ってでも書かねばならない、なぜなら我々は人間だから。人間である私は、自分の頭の中のことを書くことが好きだから。

 この本は人生論ノートの解説でもあり、人生論ノートそのものでもある。私たち体験していない時代だから知らないことばっかりかというと、全然そんなことはない。むしろ今にも通じることばかりだ。

 例えば、人は成功と幸福を同一しているがそれはちがうものだとか、そもそもの哲学の役割とか。今もそうだけど、哲学はあくまで「できあがらないもの」であって、ソクラテスだろうがパスカルだろうが、生きたそのあいだだけ紡がれた「人が幸福を得るために」人とはどんなものなのかを解こうとしたものだ。誰一人(あるいは誰もが)、解けた人はいないと思っている。でも時代が幾重にも折り重なり、今の私たちは「自分と似た思想の人」を見つけることができるほど、哲学も厚みが増した。けれど、彼らは私ではない。彼らのどのエッセンスをもらい、私がいかにしてゆくかは歴史のどこにも刻まれないだろうけれど、確実に哲学だと信じている。

 あれ、ちょっとズレてきたわ。ごめん、寝起きなんよね。

 幸福は人格だ、と三木清は言う。

幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。もちろん、他人の幸福について考えねばならぬというのは正しい。しかし我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか。

幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃(たお)れてもなお幸福である。

 この辺はもう、なんて美しい文章、そして男らしく力強く新鮮な響きだろう。多くの文学がそれを描いてきた。誰かの成功が必ずしもあなたを幸福にするとは限らない、上辺だけの善や幸福は偽物であると。それなのに、やはりご時世も相まって「明示的な結果」を求められる。結果が出るものこそが真実、正解だと思ってしまうと大間違いを犯す。

人が後悔することの半分以上は、己に抗ったためであろう。抗った結果として破綻を来したなら、これは明らかに不幸であろう。
己に従って行った選択であれば、成功はまさに幸福であるし、失敗もまた彼を傷つけることはないだろう。

 私たちはどれだけ、彼の示す不幸で傷ついてきただろうか。この一文を読むだけで、不幸を抱えた過去の自分が「あの時は痛かった」「傷ついた」「辛かった」と叫びだす。もちろん、自業自得のことだってたくさんあるけどね。あるけども、戦争のころよりははるかに生ぬるいけれど、少なくとも多数に抹殺される少数の意見というものを、多くの人が経験したことがあるのではないかと思う。

 ま、そんな中でも「学校ってこういう場所だからな」って俯瞰できればよいが、当方普通の学生だったわけで「だから言ったじゃん! なんでこれで連帯責任なんだよ不公平だ!」と不満を募らさせていた自分自身は、ある意味では突発的で自己中心的な事件を起こす人たちと大差がないのかもしれない、と思うところだ。

 戦争は人々にいろんな影響をもたらした。言論の自由が奪われたことは、戦争の経験がない私たちもよく知るところだけど、本当の恐ろしさはきっと別にもあったに違いない。太宰治も書いてた、トカトントン。これを読んで初めて太宰が好きになった。

 戦争の怖さは、言論の自由を失うことだけではない。幕末も太平洋戦争後も襲ってきた「変化の波」。世間は浮足立ち(抑圧されていたからこれ自体は責められることではないが)、信念が簡単に曲げられ、今まで信じてきたことを無にされたとき、そこに疑問を呈す自分だけが狂ってるのか? 今ここで喪失されているものを、自分が消えていく感覚や、今まで過ごしてきた時間って、なんだったんだろう、って膝から崩れ落ちそうになる真の絶望を味わった人たちが抱える傷、闇、苦悩や葛藤は計り知れない。

 三木清は戦争によって殺されてしまった。戦地に行って生きて帰ったのに、死ななくてよかったのにと思うけれど、彼の悔しさや無念さや悲しさの、本当のところなんてこの平和ボケした時代を生きている私には分からない。けれど、死をもって初めてあちら側に行った人に会えると信じているならば、最愛の人たちに会えましたか、と声をかけたい。あなたの思想は、どんな哲学よりも文学的で美しく、読むと生きる(幸福を求める)力が湧いてきます、って。

 実はまだこれ、半分しか読めていない。精出して読みます。

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いけないゾーン

 おはようございます。昨日はいつも通りポスティングの旅へ。前回行けなかったら蕎麦屋、行ってやったよ。四方八方に向かってウォゥウォゥと叫びたいぐらい「やってやったよ!」です。



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 おじいちゃんとおばあちゃんがやってるお店で、2~3人分ずつしかさばかない。だから待つことになるけれど、待ってる理由が分かれば待つのも平気(理由の分からない渋滞は待つしかないけどイライラするよねえ)。

 今回私は夏季限定の青シソ蕎麦と蕎麦豆腐を注文。500円、安い。某チェーン店なら900円はするだろう。このへんは地域的に祖谷蕎麦っぽいものが提供されることが多いけれど、ここのご主人は20年ほど東京でうどん屋をしていたとのこと(四国新聞の情報)。祖谷蕎麦と違いピンピンハリハリの元気な蕎麦である。そばつゆは薄めだけど蕎麦の味を十分感じられる。とってもとっても美味しい蕎麦でした。

 前回もこのあたりはポスティングしたけれど、いかんせん野良犬が多いところで、みな「捨てに来る人もいるしねえ、うちのはいるよ」っていう感じ。おおよそ予想はついていたので、今回は綾川方面に下って(北上して、になるんだけど)ポスティングをした。歩いて5分ぐらいの場所にあるコンビニに車を停めさせてもらって徒歩で歩いて回っていたのだが、知らず知らずのうちに不思議なゾーンに突っ込んでいた。

 そこは歩いてしか行けないところで、さほど広くもないところなのだけど、入ってしばらく歩いてもなかなか道に出会えない。家は外見が全部同じなのに方向も建ち方もばらばらで、道らしい道はない。舗装されていないところばかりだからか、カラカラに乾いていて、気分的には火星の町に来たみたい。一番不思議に感じたのが、時間の流れ方だ。道から少し離れているからか、とても静か。テレビの音も聞こえないけど、どのポストもあふれかえってないから使われていることには違いない。

 春樹の小説や、そのほかの小説でもきっとあるだろう、知らないうちに見たこともない街に降り立ってしまった、という話を思い浮かべていた。

 住宅地というのは良くも悪くも「似たムード」だ。不思議なことに、新しい住宅地でも古い住宅地でも、ポスティングで歩き回ってるときの反応はほぼ変わらない。けれど、昨日のあの場所は住宅地とも違う、県営・市営住宅とも違う。地図で確認したらやっぱりすごく狭い区域だからトリップ感がすごかっただけかな。

 ほんの数分だったのかもしれないし、10分ぐらいはさまよっていたのかもしれない。ただ、大通りに出たときは自分が驚くほどホッとした。

 MONKEYで発表された春樹のコミック化の本だそう。だいたい関係書籍も読むのが好きなんだけど、春樹のものは春樹以外の人がどうにかしたものってあんまり興味がない。水丸さん、水丸さーん! マサルさんマサルさーん!!

かえるくん、東京を救う (HARUKI MURAKAMI 9 STORIES)

かえるくん、東京を救う (HARUKI MURAKAMI 9 STORIES)

物語の向こう側にはみんなが知ってる川が流れている

 広告の位置がおかしい。自ら付けたら両端に出る広告が消えるかと思ったんだが、消えるどころか増えたな。Wordpressでは発揮できない(むしろこっちにそれを貼りたいのに上手くいかない)というのに、なぜはてなで叶うわけ!? 朝から妙な方向へイラっとしています。

 おはようございます。肌寒い朝だね。スタイリッシュ時代劇で殿をお守りできなかったっていう夢を見た。いや完敗だったね。

 頭を面倒くさい考え事に使わず、と書いたけれど、一切やめたわけではない。臨床とことばは良い本だったから、すごくいろんなことを感じたしね。感じるっていいなあ、気持ちいいことなんだなあって思う。愛読している(ベッドに置きっぱなだけだが)この本を、また読み直さねばと思っている。

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

 この本の内容は、河合隼雄さんの名前でいろんな本に掲載されているようだ。全部確認したわけではないが、この本が総集編であったらいいなと思う。村上春樹の小説は、おとぎ話のような嘘話だ。嘘話の中に真実がある。その真実とは、読んだ人が感じればいいものであって、あからさまに「これが真実なり!」と書かなくていいところだ。そういう形態の小説を書いている人、今ではどのくらいだろうか。

 勝手に私が「すごい作家」に認定しているいしいしんじさんなんかはそうだ。

ぶらんこ乗り (新潮文庫)

ぶらんこ乗り (新潮文庫)

 私は素直じゃない人間だからか、星の王子さまって好きになれない。小さなころから、さもありなんとした絵本が大嫌いだった。勧善懲悪だったり、良いものが救われたりするのは、いつだって「こうだ」って言いきれないじゃん(だって濡れ衣着せられて怒られたりするし)って思ってた。だから童話的なものに拒否反応を示しがちなのである。

 けれど幸福な王子はとても好きなお話で、読み終えると必ず、幼い私も、今の私も、王子の幸福を願わずにはいられない。かといって、自己犠牲の話しが好きだってのとはちょっと違う。嫌われ松子の一生は辛いもんね。逆に、腑抜けども、悲しみの愛を見せろの方が徹底的に、兄ちゃんに対しても「こいつらイヤだわ。関わりたくないわ」って思えるからマシだ。

嫌われ松子の一生 (上) (幻冬舎文庫)

嫌われ松子の一生 (上) (幻冬舎文庫)

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)

 何が違うのか、結論は出すまい。分からんし(結局は愛を得たいがための犠牲と、そうではない心の違いか?とか思ったところ)。

 宮沢賢治は言わずもがな、読めるようになってからは大好きな作家です。塩鯖の影響? いや、塩鯖が教えてくれた「宮沢賢治の世界の楽しみ方」のおかげってこと。

 絵本じゃないの読んで欲しい。

 で、最初に戻る。村上春樹が小説で描こうとしているもの。河合隼雄さんの臨床とことばを読んで、描かれている世界だけにとどまらない普遍性の話を、この二人はしていたんだと感じた。ということは、今までとは違う視点でこの本をまた読める、って思って嬉しくなった。新しい視点って嬉しい。

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 人生の内、かれこれのダメンズを見てきた。概ね救いがたいダメンズだ。でも、そうじゃないメンズも知っている。本当に本当に、ダメじゃないメンズと結婚したいと願っていたから、塩鯖と結婚できたのだと思う。こう言うののコツは、あれもこれもと願うのではなくて、これだけは譲れない本当のものをお願いするといいのだ。

 今日は父の日。妹ちゃんのクッキーは完売しました。買ってくれた人たち、ありがとう。世の父たちに幸多からんことを。

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つちのこ系とガスの勧誘

 ここのところずっと、頭でこねくり回さない生活をしているせいか、ここに書くことがなくってね。ガチ日記が続いている。写真は昨晩の晩ご飯の石焼きビビンバとタッカルビ。今更ホットプレートの万能さに驚いている。ホームパーティーとかでもいいらしいが、ホームパーティーなんてしないから普通の晩ご飯だよ。ナムル3種は自家製、簡単だし自分で作るとニンニクを抜けるので作ることお勧め。ミンチはシイタケのみじん切りを入れて、コチュジャンオイスターソースで炒める。混ぜ混ぜするならミンチがいいよ。

 昨日、保健所に行ってきた。配布用のチラシをもらうためだ。結構な頻度で保健所に行ってるけれど、昨日は保護された子たちがたくさんいる日で(こんなにいちゃいけないんだぞう。飼い主さん探してくださいよ)、フレンドリーな子たちと遊んできた。

 一番フレンドリーな子は今日が処分日予定だったのだけど、ぎりぎりセーフで大阪の方が迎え入れてくれた。とても優しそうな男性で、メンバーさんたちとホッとしたのだ。しかしこの子が、とてつもなく愛嬌のある顔をしていて面白い。

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※保健所で掲載している写真。

 見ての通り、若干いかつい顔をしている。鼻はストライプだし、お笑いメイクのようなのだ。下の歯が出ているのは、アンダーショット(マルチーズはもともとそういう骨格らしい)と言われる「受け口」で、下の歯が出ちゃうのだ。このように、保健所が撮る写真は可愛さより特徴をとらえることが多く、、もうちょっとほら、可愛く撮ってあげてよ(笑)

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※これは私が撮ったもの。ネットでの掲載の許可アリ写真。

 見事な受け口。これは「犬の犬歯って上の歯の方が前だよねえ?」なんて言われつつ、口に手を突っ込まれたりしていたときのもの。「やめてよー」とやるものの、噛んだり怒ったりしない。尻を掴まれても「もー、この人はー」ぐらいの反応で、まったく怒らない温和な子だった。私にとっては、もうこの受け口がツボで可愛くて可愛くて、マンションでなければうちに来てもらいたいぐらいだった。でもねー、マンションなんだわ。

 この子はもう里親さんが見つかったので一安心。問題はいまだ飼い主が見つからないビーグルと、新しく入った柴@女子と、プードル。チーム野良に所属していただろう黒い子2匹。

 ビーグルも甘えなきがすごいので(保健所内だとあんまり遊んでもらえないからね)、ちょっと遊ぼうかと近寄ったら、ビーグルにあるまじきアタック力。よくよく見ると、けっこうみっちりしている。歩く姿を上から見るとツチノコである。あらあら、ストレスでご飯食べられない子もいるのに、君はしっかり食ってるんだねえ、なんて言いつつ思う存分アタックされた。飼い主さんか、里親さんが見つかるといいね。

 柴ちゃんは、地蔵と呼ばれていた。ブロックの上にお座りして動かない。まさに地蔵。触れるかなーってほかのメンバーさんが近づくと、ある距離を超えたら前歯を出して威嚇する。ウーとかウウーとか言わない。ただただ、前歯を見せる。その姿が昔飼ってた犬そっくりで爆笑してしまった。この子はつい最近ポスティングした地域の子なので、私もしかしたら吠えられたのかもね。本当にもう、わんわん、わんわん、吠えられるのいまだに全然慣れない。

 こんな風に、保健所でつつがなく一日が終わることも最近は多いです。一緒にポスティング行きませんか? ちょっと遠出したときはうどん食って帰るといいですよ。

posting1122.amebaownd.com

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 そういえば、昨日はガスの勧誘も来たのだった。といっても、ガスでうちは賃貸である。入居者でできることなどほとんどない。そのことを営業さんも知っていて、「一応お伺いするんですけど~、あー、それは家主さん行きですねえ」という会話を3回ぐらいして、粗品の布巾をもらった。営業さんも分かってて回らねばならないのだろう。約15世帯あるこのマンションで、あの会話を15回繰り返すお仕事か、と思うとちょっと気の毒になった。

 楽してポストに付近とチラシだけを入れておいてもいいのかもしれない。ちょっと不器用な人なのかもしれない。いずれにせよ、なんか憎めない感じの人だったので良しとしよう。先日来た新聞の勧誘も、決まり文句を流ちょうに話して、「いえ、でも結構です」と断るとサササーっといなくなった。粘りがない。最近の勧誘で粘りがあるのはNHKぐらいだろうが、NHKはもう払っている。お手紙で「BSが映るならBS料金も払ってね」って来るぐらいだが、BS入らないんだ、このマンション。

 もらった付近は、「ほしょうくん」という和尚を模したキャラクターの書かれた薄いタオル地のものだった。タオル地の布巾より手ぬぐいの方が嬉しいんだけど、最近はなかなか手ぬぐいがもらえない。うちにある手ぬぐいは般若心経が書かれているから、出汁を濾す気持ちになれないのだった。

朝型生活

 最近、涼しいからかよく眠る。けれど朝型であることには変わりなく、夜は早く寝てしまう。普通の人ならば起きているであろう21時過ぎぐらいにはもう就寝の気持ちでいっぱいで、昨日は21時半ごろにはもう寝ていた。

 これは一人暮らしのころからあまり変わっていないところだと思う。もともと宵っ張りさんではないのだ。だから夜のイベントっていうのにほとんど行ったことがない。7月にもちょっと興味のあるイベントがあるのだけど、高松だし(車で45分ぐらいかかる)、19時半スタート21時終わりだし、これはアウトだなって思ってる。

 自分のライフサイクルに合わないイベントは全部だめかというと、そんなこともない。どうしても行きたければ行く。是が非でもライフサイクルを変えたくないわけではなくて、ライフサイクルを変えてでも得るものが大きいだろうという確信があれば行くのだ。逆に言うと、どっちか分からんもののためにライフサイクルは変えたくないということだ。

 今月は、念願の大塚国際美術館に行く。クリムトピカソと写真が撮れるのだ。ひゃっほーい。ここは行きたいと思って約5年ぐらいか。少しずつ願いが叶ってゆく。こんなペースでバリにもグラストンベリーにも行けるんじゃなかろうか。

 先日のサムギョプサルがあまりにも美味しかったので、おうちサムギョプサルをする。これでも十分美味いではないか。ただし、はさみで肉を切る時、両利きじゃないと結構しんどいと思う。私は何度となく箸も切りかけた。塩鯖は両利きなので、途中で塩鯖にチェンジしてまともに切ってもらえた。

 最近の朝食はもっぱらこれ。クッペもどきと同じ生地でベーグル風も作る。ゴマを入れ忘れたけどたまにはいいね。このベーコンやハムの方にタバスコハラペーニョソースを使うことに塩鯖がハマっている。

タバスコハラペーニョソース 60ml

タバスコハラペーニョソース 60ml

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 陰惨な事件が起こっている。少々過激な発想にはなるが、理由もなく人を殺すような人はこの世界にいらないと思う。

丸亀の宝に行ってきた

 食べログで「丸亀の宝」と言われているお店に行ってきた。まさしく、丸亀の宝であった。

 だいたい私は古いうどん屋ほど好きなのだ。もうなくなってしまったオビカ食品(中央市場の中にある業者さんの朝ごはん的なお店)のような、昔からこのスタイルでやってるお店が好きなのだ。もちろん、新しいうどん屋も嫌いじゃないし、美味しければいいのだが、美味しいだけではリピートしない。

 飲食店のリピート率は「居心地の良さ」が大前提だ。椅子の座り心地だとかムードの良さ、あるいは接客の対応など、ある程度は必要かもしれない。実際、居心地が良くてジャズが流れててとういうどん屋も近所にあるが(手打ちうどん 渡辺さん、前はよく行った。今は人が多くて待つことが増えたから行かなくなった。木の葉の天ぷらととり天が素晴らしい店)そういう問題ではないのだ。食う側がどれだけ納得して味わえるかどうかが問題なのだ。

 だから繁盛店で多少並ぶけどってところでも、がもうみたいなところだったら少々我慢できるし、先日行ったラーメン屋は(店に入って食うまでに1時間を要したのだよね、あそこ)もう二度と行かないと思っている。ええ、かなり個人差の出るところだろうって思うよ。

 しかしだな、人から食の楽しみを奪うことは、人から尊厳を奪うことに等しいのだよ。私はこれを香川に来て強く強く感じるようになった。

 で、うどん屋だ。「丸亀の宝」とまで称されているこのお店は、とにかく古くて汚い。しかし、この汚さは時間と仕事が作り出した汚さだろうなって簡単に想像がつく。ここで粉をこね、麺を打ち、茹でているのだ。ずっとずっと、私の生まれる前からずっと。

 この店はゆめタウンに繋がる新しい道に面している。この道ができるまではただの雑多な街中であったそうだ。だからこの道ができることになり、いきなりメインストリート沿いになったという場所。雑多な街中にひっそりとあった神社とうどん屋兼製麺所が、いきなりメインストリートで日に晒されることになったわけだ。

 ポスティングで気づいたけれど、高松市丸亀市も、仕事で用事があるだろうってところはそれほどすごい町の作りになっていない。すげーなこれ、と感じるのは川沿いと、古い住宅地だ。入り口が分からないとか、道なのか私有地なのか分からないとか、四方を田んぼに囲まれているとか、そりゃもうすごいもんだ。きっとこのお店も、昔はそういう街中にあったに違いない。だって一本道を入るとそういう界隈だもんな。

 私たちが行った時はじいちゃん一人。暖簾を出していないのに乗り込んだ私たちに「もうちょっとだよー」と声をかけてくれた。けっこう不愛想な爺様だが、どことなく優しい雰囲気もある。後で感じたのだが、不愛想ではない。顔がちょっと怖いだけで、とても優しいおじいちゃんだよ。

 ここは太麺と細麺がある。というのは事前にリサーチしていたので、麺ばかりを攻める作戦で行った。私は細麺と太麺を1玉ずつ、冷かけで。塩鯖は冷やしとかけを1玉ずつ。これにお揚げさんとかき揚げ。注文してうどんを受け取って(かけ以外を頼むと、冷蔵庫まで足の悪いおじっちゃんが移動するのでちょっと時間がかかる。塩鯖は「次行くときはおじいちゃんが動かなくていいようにかけにしよう」と言っていた)、かけの場合はすぐそばにある蛇口からかけ出汁を注いでテーブルへ移動する。

 ワクワクが止まらない我々は、水さえ忘れて注文したさ。

 私は冷かけで塩鯖はかけだが、塩鯖曰く「温度はさほど変わらない」だそうだ。うむ、納得である。うどん屋によっては、茹でて水で締めて初めて「うどんが完成」するところもある。釜揚げや釜~は邪道というお店もあるのだ。ここは締めたうどんが「完成品」であるから、冷たいうどんがどんぶりに入ってくる。そこに温かい出汁をかけるので「ぬるい」わけで、冷かけの出汁もさほど冷えていないので「ぬるい」わけで。なんだこの愛嬌は。「料理は温度が大事だ」と普段は豪語する私も、なんか笑って許せてしまう。

 許せる一番の理由は美味さだ。最高、もう最高としか言いようがない美味しさ。出汁もちょうどいい、細麺ももちもちのつるつる、太麺も食べごたえのあるもちもちだが粉っぽさなんて微塵も感じない最高の状態。できあがった直後のうどんだから最高なのは当然だけど、あんなに生き生きとした麺を食べたのは谷川米穀店以来。あんな遠くに行かなくてもこのクラスのうどんが食えるのであれば、宝と呼ぶ以外に何と呼ぶ? 麺の太さは指定しなければ細麺が出てくる。けれど、細麺マジ美味い。


 id:t_katoさんがこっちに来るらしいと聞いたので、何より先にお伝えしたくて記事を書いている。香川のうどん屋はたくさんあるが、昔から続くうどん屋はいつなん時閉店するか分からない。店主が年のため、病気のため、様々な理由で店を閉め、後に別のうどん屋が入る。ここにきて4年目の私でさえ、そんな風景をたくさん見てきた。もう一度行っておけばよかった、いつもそう思う。katoさん、ここは市内だし、絶対に行くべきですよ!!

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 会計は最後。店の奥の流し台にどんぶりを下げて申告する。しめて830円(安すぎ!!)。天ぷらは独特の「ざくざく」した感じ。今度は私も天ぷらを食べたいので、細麺の中(1.5玉)とちくわ天にしよう。

臨床とことば

臨床とことば

臨床とことば

 図書館の本をぎりぎりまで温める癖がついてしまったようで、これは悪しき習慣。けれど、この本は本当に面白かったなあ。

 権威というのは、その集団に属していれば発揮されるものかもしれないが、その集団にいなければなんの脅威もないものだ。だけれども、私たちは人生のどこかで出会った「権威」を一緒くたにして「この人は偉い人らしいで」というフィルターをかけがち。それ自体どうともないのだけど、だから話が分からんとか、だからこの人の言うことは正しいと言い出すと、大いに誤る。けれど、これは恐怖からそうするのではなく、面倒くささからそうするんじゃないかと思う。誰もが権威におののくわけじゃないもんね。

 さて、そんなことはどうでもいい。

 この本の中では、人は偶発性の中に生きていると書いている。ハッピーとはハプ(ハプニング)だ、とも。こう書くと難しそうだが、難しさがあるわけではない。臨床心理士として患者さんに向き合ってきた河合先生は、患者さんがいくつもの偶然の出来事を経て治癒してゆくさまを見てきたのだそう。そこには「なぜこうなった」とか「だからこうしている」という理屈はなく、ただじっと耐えたり、やり過ごしたり、あるいは言葉を心の隅に引っ掛けて過ごしたりしていたら、偶然の方からやってきてあれよあれよと心持が変わり、行動が変わり、鬱やノイローゼから脱してゆく(治癒してゆく)ことがあるのだそうだ。それも少なくない数で。

 学会で「偶然よくなっていったんですわ」と言ったらバカにされる、と書いている。事実であったのだろうと思う。人は科学的に因果を説明したいところがあるし、双方向で説明が叶うものを「真実」と思いたいものだ。それは林修さんが言っていた「努力は報われて欲しい」というのにも似ているし、先に書いた「権威にはそう振舞っておくのが妥当」というのにも似ている。要は近道をしようとしているのだ。けれど、なにからなにまで理由付くわけもなく、因果が結びつくわけでもない。いや、長い人生をかけて走馬灯の中であらゆる因果を見るのかもしれないし、そんなこともないかもしれない。

 それ(理由や因果や根拠)を追い求めるロマンの人生もいいかもしれない。けれど、自分はどうなのだと問うといい。追いつけないものを追い続けるロマンだけで満たされる人なのかどうか、と。

 この本の中で取り上げられていた円谷幸吉の遺書をWikipediaから引っ張ってきた。川端康成三島由紀夫の言葉もある。美しいと感じるも、退屈と感じるも、それこそ個人の自由だ。だけどもこの遺書には神々しさがあると思う。文章の、ことばの、という垣根を超えたもの。人は詩を書き、俳句を詠む。これらのすべては、ここに繋がり、その先へと進んでいるのではないかと思う。

父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿 もちも美味しうございました。
敏雄兄姉上様 おすし美味しうございました。
勝美兄姉上様 ブドウ酒 リンゴ美味しうございました。
巌兄姉上様 しそめし 南ばんづけ美味しうございました。
喜久造兄姉上様 ブドウ液 養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄姉上様 往復車に便乗さして戴き有難とうございました。モンゴいか美味しうございました。
正男兄姉上様お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、
良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、
光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、
幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、
立派な人になってください。
父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
何卒 お許し下さい。
気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。
遺書の全文(原文ママ)

 川端康成はこう語る。

「相手ごと食べものごとに繰りかへされる〈美味しゆうございました〉といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる。そして、遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ」

 三島由紀夫はこう語る。

「円谷選手の死のやうな崇高な死を、ノイローゼなどといふ言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きてゐる人間の思ひ上がりの醜さは許しがたい。それは傷つきやすい、雄々しい、美しい自尊心による自殺であつた」

 私はこの遺書を読んで涙した。そして同じ種類の涙を流したことを思い出した。長嶋有の「夕子ちゃんの近道」の終盤、この一文に出会った瞬間だ。

「君は、この僕が畏れ敬う数少ない人なんだから、どんなときも泣いたりしないでよ。」

 この一節を思い出すだけで泣けてくる。この涙が何を意味するのか、私は初めて読んだころから分からない。あえて言うならば、自分の中に芽生えた祈りや畏怖に、自分自身が震えているのだろうか、と思う。それは畏怖する対象がものであろうと、人であろうと関係ない。自分の中に「敬いたい」気持ちがあることを、思い出させてくれることに涙しているんだと思う。

夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)

夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)

 ここのところ、考えることを放棄しようとしてみている。けれど、それはまぁ無理な話。だから答えの出ないことを考えるのを止めることにした。分かっているのだ、答えが出ないことに「今のところ」の答えを出したところで、なにもスッキリするわけじゃないってこと。

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 そういえば、レビュージャパン(今はもうないサイトらしい)に投稿していた書評(あるいは、その写しであるはてなダイアリーのログ)のデータが見つかった。2000年前後ぐらいの140件ぐらい。すっごい暇な時にここに移植していく予定だけども、昔のデータなので日にちが分からないっていうね。恥ずかしいほどに、偉そうなこと書いてる私(笑)

初めての本格韓国料理

 隣人ほど仲良くできない。国際問題に土江は勝手にそう感じています。日本で言えば韓国。お隣なのに行ったこともなければ、行く気もあまり起こらない。気候がたいして違わないというのも理由のひとつだと思う。

乱歩の美食 (ニチブンコミックス)

乱歩の美食 (ニチブンコミックス)

孤独のグルメ 【新装版】

孤独のグルメ 【新装版】

 塩鯖はグルメ漫画が大好きだ。孤独のグルメはドラマ版を見ているが、乱歩の美食はコンビニにあったコミックス。グルメコミックといっても、いろんなジャンルがある。クッキングパパのように自分で作るものもあれば、めしばな刑事タチバナのようなこだわりを描いたものもある。殿堂入りはやはり美味しんぼだろうが、あれはお手届かない高級食材も出てくるので身近感が少ない。塩鯖が専門としているのは、美味しいお店で食を堪能する系である。しかし、そこに「酒」が飲み物以上の存在感を出してはいけない。あくまで「食う」がメインでなければ。

 そんなこんなで、乱歩の美食から韓国料理を食ってみようということになった。ググって近場の韓国料理店に行ってみた。これがホームラン級の激うまであった。

www.hotpepper.jp



 サムギョプサル、青唐辛子とチーズのチヂミ、チャンジャのキンパ(韓国風巻きずし)である。どれもこれも「韓国風」ではなく、韓国料理である。始終驚きっぱなし。初めて尽くしは楽しい。

 サムギョプサルはお店の人が焼いてくれる。食材自体は見たことがあるものだけど、韓国となるとどんな味になるのだろうか、興味津々。お店の人が丁寧に切り分けてくれるのを(本当にすごく丁寧、ぐちゃぐちゃ混ぜることなく、きちっと並べて一口サイズに切ってくれる。これに感激してしまった)うずうずと待っていた。この時間もまた楽しい。

 さあどうぞ、と言われてからまず作ったのは「全部盛り」。はい、食いしん坊万歳。豚肉、チーズ、ナムル、キムチ、コチュジャンをサンチュにまいて一口で。初めての美味さー!!! こんがり焼けた豚肉の甘い油にキムチの酸っぱさが爽やかに刺さってくる。生まれて初めてすっぱいキムチの存在意義の謎が解けた。

 感激しすぎて夢中で食う。あれもこれも、この組み合わせあの組み合わせも、と大忙しである。一口でって言われたので律儀に一口で食べていたが、お上品さには欠けていたかもしれない。しかしそんなもんかまうかっ!!

 サムギョプサルは2人前から。チーズタッカルビも有名なようで、隣も向かいも頼んでいた。しかし爆弾的な量だ。きっとあれだけでお腹いっぱいになる。カップル3組がチーズタッカルビを食していたが、楽しそうな顔の女性は1人であった。それはきっと、連れの男性がチーズタッカルビ+αを頼みすぎているからかもしれない。という推理に至ったのは、我々もけっこう頼みすぎていたからである。

 サムギョプサルがなくなるころ、チーズ青唐辛子チヂミがテーブルへ。分厚い。予想外の分厚さである。こ、これは食えるのか……? と一抹の恐怖が推そう。けれどこれも美味い。もっちもちで青唐辛子がガチンコである。辛い物好きだが青唐辛子系は苦手な私はひーひー言いながら食う。美味い、辛い、ごつい。そんな中、チャンジャのキンパも届く。持ってきてくれたお姉さんが「お持ち帰りのタッパーもありますからね」と言ってくれる。分かっていらっしゃるわ、そう、多かったわ、ごめんね、でも全部叫びたいぐらい美味いです。

 青唐辛子のチヂミに口の中をやられたのでウーロン茶が進む。そうすると、必然的にお腹が膨れる。キンパはひとつしか食べられなかった。もちろんお持ち帰りタッパー行きである。チヂミの1/4とキンパをお持ち帰り。

 これだけ食べて大満足で二人で6000円弱。コスパも素晴らしい。大人数でいろんなものを頼んでわいわいやりたい。そんなことは滅多に思わないのに、このときばかりは妄想が膨らんだ。

 食文化ってすごいなと思う。日本はいろんな国の食べ物が、そこそこ田舎でもそれなりに食べられる。もし自分が外国人だったら、母国の料理が日本風に変わっていると面白いだろうけど、いわゆる「ちゃんとしたその国の料理」として出てきたら、感激することだと思う。私も台湾で寿司があちこちで、日本よりも手軽に(駅弁みたいな感じで)食べられていることは嬉しかったが、正直なところ自分で食べようとは思わなかった。けれど、それに対して嫌悪感はなく、むしろ「日本の食べ物を美味しいと思ってくれてありがとう」と思った。

 隣の国とはいえ、調味料の使い方やキムチの使い方が全然違うのだろうなと思う。同じぐらいの気候の場所だから余計にその違いに感動するし、ちゃんと美味しいものを食べるとその国のことが少し好きになる。きっとそれぞれの食文化の中には、相容れないものもあるだろう。日本の梅干しや納豆、日本人でも好き嫌いが分かれるところだし。いろんな国の「当たり前」に気持ちよく感動できるのが食の交流なのだろうなと思う。

 感動的なおいしさであった。また行こう、絶対行こう。

朝うどん。

働く男たち、船たち。 港はどこも好き。人がいてもいなくても、船が大きくても小さくても。

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朝うどんを食べに来たのだが、まだ開いてなかった事件。 #よくある

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kagawakenudon.com

 塩鯖が、三嶋製麺所に行きたいと言っていたのだが、諸所諸々から喰うかいにチェンジ。おはようございます。朝うどん。

 三嶋製麺所は遠い。先日の山奥ポスティングの場所より更に山奥。ちなみに谷川米穀店はもっと山奥。移動時間に仕事の電話がかかってきそうな予感がしたので、喰うかいに行くことにしたのだ。

 減塩生活をしているからか、うどんが全般的にしょっぱく感じる。かといって、食えないほどしょっぱいわけではない。肉体労働した後とか、ポスティングした後だったら絶対悶絶するほどおいしいだろうなと思うくらいの塩加減。私はひやかけを(夏限定)、塩鯖はかけを。

 ここのおでんが美味しい。牛筋とかしわ(親鳥)、これでいくらでも酒が飲めそうだと、下戸の貧相な想像力。

 塩鯖は体温が低い。私は体温が高い。いまだに炬燵があるわが家、そろそろしまおう。でも、塩鯖の冷えっぷりを感じると「そら寒いだろうね」と思う。若年性更年期っぽい1年を過ごして、本当に私の身体は変わってしまった。でもそれも10年前で、ぬくぬくなのが普通になった。もう冷えていたころを忘れている。特に覚えてないといけないものでもないけれど、なんかこう、寂しい感覚。

 これだけ手足がぬくぬくで、最近は飯を食うだけで汗をかくデブ街道なのだが、お腹だけはとにかく冷たい。そのくせ、腹が一番に汗をかき、冷えるのだから手に負えない。いつでもお腹痛い病の危険ありだ。

 もうこれは、腹巻しかない。腹を物理的にガードするしかない。