生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~世界に狂った色彩を~

鬱は甘え問題について(未完)

 タバコをやめるために、脱紙たばこしている私です。おはようございます。今やたばこも多様化しまくっていまして、アイコスやらプルームテック、べイプなど様々なインタフェースがあります。アイコスはタバコの葉を加熱して吸引するので紙たばことさほど変わりがないかと思うけれど、プルームテックやべイプは蒸気を吸うものなので副流煙が出ず、タバコ吸ってる感はとても少ないです。だけど、プルームテックはタバコの葉のフィルター通すので、微量ながらニコチンを吸引します。べイプは様々だけど今のところ日本ではフレーバー蒸気を吸引するもの、タバコの葉のフィルターはつけたりつけなかったりできるものになっています。

 で、私はプルームテックを愛用しているのだけど、微量とはいえニコチンがあるんだなあと感じました。昨日の夕方からプルームテックが切れていたんだけど、しっかりニコチン切れになってイライラしまくってる朝を迎えたからね。ああもう、ニコチン奴隷から解放されたい。解放されるにはニコチンと縁を切らねばならない。それがまぁ、辛いんだ……。ともかく、朝から当たり散らしてごめんね、塩鯖(帰ってきたらひたすら謝ろう)。

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 さて、鬱は甘え問題。20年以上も前の話題だよなあと思います。というのも、日本では1990年代後半くらいまでは鬱という言葉そのものが一般化されていなかったと思うから。鬱よりもノイローゼのほうがメジャーだったと思います。育児ノイローゼって言葉は子供ながらに聞いたことがあったし、今思えば母は10年ぐらいノイローゼ気味だったなと思います。

 これはGoogle先生が教えてくれたことだけど、ノイローゼって何かって言うと「神経症」症状のこと。ずーっと考えていて、覇気もなければ生きてる感じもない、ゾンビ的な状況のことを言うのだと思います。では鬱はというと、鬱はいろんな症状があるものの、とにかく自己否定が根底にあると思う。

 私は塩鯖の入院が長引いて入院鬱になったころ、しっかりノイローゼ状態になっていたと思うもの。毎日「米に虫がわいて……」って、どこに行ってもつぶやいていた。かなり怖い。塩鯖は入院鬱で鬼気迫る勢いだったので二人してかなり悲惨な状況でした。でも、塩鯖が退院して休職して(この時点で私のノイローゼは消えた)、私が仕事をやめて二人でポカーンとした時間を過ごしていたらいつの間にか治っていたけど。

 で、鬱が一般化した1990年代後半から2000年初頭まで、鬱を発症しては「鬱は甘えだ」とか「暇だから考えすぎて鬱になるんだ」とか言われた人は少なくないと思います。私もそう思っていたところはあるし、でも自分が鬱になったら「甘えとは違うと思うんだよな」と思うようになりました。

 それでも、一回目の鬱を克服した後は「鬱は甘え」の方向に転びました。なぜかっていうと、やっぱり結局のところ鬱を理由に「していない」状態の人を許せない、許しがたい気持ちがあったからだと思います。自分は我慢してやってるのに、鬱ってだけでやんないでいられるなんていいね、って思ってたってことです。全然人にやさしくない私、でもこれが事実。

 そして2度目の鬱のとき痛感しました。鬱は甘えじゃないわって。鬱は戦い。当事者は、毎日毎日見えない敵と戦っている。それはなにかっていうと、無意識的な我慢が作り出した「~あらねばならない」「~しなければならない」というイメージの塊だと思うんです。それを「お前の思い込みだ」という人もいる、事実そういう部分はある。けれど、思い込みだけで片付かないものがあるんじゃないかと、最近は思うようになってきました。

 社会からの圧力というのは、時代も大いに関係していると思うんです。では時代を作っているのは何か。時代は人が作るものです。文明開化も、欧米化も、量産化も、機械化も、全部人間が作ってきました。それによって生まれた副産物が文化や生活習慣、世論、時代の空気などなど。いわゆる「同調圧力」の巨大版が時代の空気なんだと思います。

 良くも悪くも世界は広くなったと思います。それはインターネットの出現もあるし、移動が速くなったこともあるし、国同士の壁が低くなったこともあるし、核家族化(都会に出て働いていた人が、そこで家を構えるようになったこととか)もあると思う。いずれにせよ、世界は狭くなり、遠くのことも身近に感じられるようになった。だから「世界は広くなった」ということだと思うんです。

 だから同調圧力のようなもの(実際には何て言えばいいのかな。社会学者とかは上手いこと言ってそうだけど)も巨大になっていったんじゃないかなと、それに伴い「鬱」という現代病が一般化し、社会の病のようになったんじゃないかなと思うんです。

 ああ、普通っていう病気かもしれない。普通なんて存在しないものに脅かされるのが鬱かもしれない。

 では今の鬱はどうかなっていうと、かなり一般化された病気だと思うんです。病気というのも微妙なほど、鬱は誰しもが経験する「ある心理状況」と表現したほうがいいのかもしれない。となると、医療はついに心の分野にメスを入れるようになったのか、とも思います(けれど、医療はどう頑張っても魂を救済することはできない。魂を救うのは人以外にいないから)。

魂にメスはいらない ユング心理学講義 (講談社+α文庫)

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 人は暇だから鬱になるのか? そう問われると、NOとも言えるし、YESとも言えると思う。暇っていう言葉は余裕と間違えられそうで違うな。時間とか余裕の問題ではなく、考え方の自由度が上がったというほうが近いんじゃないかと思います。人はより「自分」を考えるようになった。

 プラネテスにこんなセリフがあります。

「今、あんたの心はね でっかいものの見方を覚えたばっかりなのよ」

 鬱もこれに近いと思います。自分という人の見方を覚えたばかり。そんな人が、自分の闇を初めて覗き込んで、闇に飲まれてしまう状態。ええと、ニーチェもまた似たような言葉を残しています。

「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」

 だから今も昔も「鬱」ってあったんだと思うんですよね。まぁそうだよね。

 今の鬱の患者は100万人以上いると言われています。これだけ多くの人が「自分」を見て闇に飲み込まれるようになったんだと考えると、うーん、精神の軟弱化とか、闇の深まりとか、忙しすぎる現代とか考えるけれど、やっぱり一つは「立ち上がり方が分からないままに生きていける時代」なのかな、とも思います。今までは宗教が立ち上がらせていた部分はあったんだよね。こう信じておけばいいんだと決めてしまうこと。でも今は宗教もボーダレス化してきたから、余計に何を信じればいいのか分からない。こんな時新興宗教が立ち上がるもんかなとも思います。

 で、結論にたどり着けない(笑)

 少なくとも私は、鬱は甘えから発症するとは思っていません。中には、鬱をサボる口実にする人もいるけれど、そんなことしたって分かる人には分かるし。社会に多様化を求める声に対して、私はイラつくことがあります。それは、少なからず私のなかに「我慢してきた私を評価してほしい」思いがあるからで、声にもならなかった頃なら「時代の闇」として閉じ込められてきたものだと思うんです。だから本当は社会運動にして昇華してもいいし、自分のなかでクリアしてもいいものだと思う。いずれにせよ、収まりきらなくなったから出てきた多くの人の声(現代だけでなく、過去の人たちの声)なんだろうなと思います。それが、今の鬱病の根っこには、いくらか存在しているんだと思います。

 それらを声にすることによって(それは文字通り”声”でも”文字”でも”芸術”でも)、時代はさらに進んでゆくんだと思います。時代は需要と供給や、産業だけが進めてきたわけではありません。見えない声が時代を塗り替えてきたところもあると思います。そしてこれからは、見えないものも、見えるものと同列で、時代を進め塗り替えてゆくんだと思う。そのためには、声になっていない声を、形にすることが必要なんだと思います。

 だいぶ散らかった。参考にした記事。

www.bbc.com