生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

早朝にごぞごぞしはじめました

 夜は寝るんですよ。おはようございます。

 昨日は今年最後のカラマンダリンの出荷。108個梱包して出してきました。本当にこれがびっくりするほど売れるのだから、知ってる人は知っている美味しさなんだろうなあ。ちなみに800gで250円。おおよそ10~13個入り。
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 運命論という言葉を聞いて、胡散臭いなあと思った私です。だって運命やら宿命やらで人生が決まっているなら、失敗したりあがいたりすることって意味ないじゃんと思うじゃない。

 実際のところは、たとえそうであったとしてもゴールが見えないんだから、毎日ただ一生懸命に生きる、それだけが人間にできることなんだよね。

 因果とは、原因と結果ということ。行動や判断や物事に付きまとうものだけど、決してそれだけで片付かないのが現実であり、だけど因果を知るってことは世の理を知るってことでもあり。だから行動に目的があり、かつ省みる人は変わってゆくけれど、そうしない人は(別にそれが悪いってことじゃない。だいたい、何事にも目的を定めてやる人の方が少ないだろう)偶然という奇跡に助けられて変わる場合もあり、変わらない場合もある。

 それは運命的に決まっているとかそうじゃないという話ではなくて、そういうもんなんだよってこと。

 昨日母と話していたこと(防除という作業中)、そして塩鯖も言ってたこと。「ここは常識が通用しない場所」確かにそうかもしれない。というか、人が少ないから余計に妙な凝縮が起こっているような感じはする。

 例えば、嘘をついてまで人を貶めてはならない。ということを知らない人はいない。だけどそういうことを平気でする人(もちろん大人だ!)はいて、それが嘘だと分かりながらも血族だからと嘘を本当にしようとしちゃう人が何人もいて、それで血祭りに上がった人は汚名(多くは「狡(ずる)い人」「ズルい人」「欲(よく)い人=欲張りで欲しがる人」が不名誉なこととされる)を着せられる。

 これが無関係の人がもっとたくさんいるような場所であれば、きっとそんなことにはならない。しかし狭いコミューンだと起こりうる。

 そういう人って、たぶんすっごく他人のことばっかり見てるんだよね。他人を見て「あいつはああいう狡い人間だ」ということで(今風に言えばマウントをとることで)自分を保っているわけだ。いや、もしかしたら暴露することが勇気のしるしで社会的に粛清しようとしている正義の味方かもしれない。いずれにしても、勝手にやってろである。

 といっても、私も矛先を向けられたらいやだろうなあ。

 ツイッター内では正義の粛清がたくさん行われているけど、粛清屋さんたちもここで暮らして矛先を向けられてみたらいい。実に生きにくい世界になるってことが体感できるから。しかもそれが、だいたい「妄想のたまもの」であって、事実無根だから。一字一句、一挙手一投足ぴったりでなくても、大筋でやってることが同じなら、こういうのは「同じ」カウントだからな。

 昨日は塩鯖が久しぶりに魚を調達してきた。この島はなんでもとれる、なんでもそろう。だけど捕れねばありつけない、それが魚だ。もちろん、捕れない種類の魚もいるから、そういうのは買うんだけどね。

 久しぶりに捌いてたら、魚が死んでなくてひぃーーー!! となった。前の塩鯖はそれ以前に触るのも嫌だって言ってたけど、今の塩鯖は「魚に飢えているがために」神経締めも内蔵出しも厭わない。素晴らしい、三大欲求。

 欲求ついでに書いておくと、肉体労働をし始めてからベッドが狭い。大人二人がセミダブル、眠れなくもない広さだし、今まで5年以上それで寝てたのに、今になって途端に窮屈になった。だからクイーンサイズのベッドが欲しい。いやマジで。6畳の部屋がベッドだけになるけどそれでもいい。

 色がきれいなサラダです。味が濃いのでサラダというには多少語弊があるような気はしている。でも、トマトがいい感じにさっぱりさせてくれるよ。
cookpad.com

久しぶりに頭を使ったよ

はー! あっという間に夏日の季節がやってきた。毎日コツコツ仕事しております。5月の連休が明ければ、一か月が過ぎることになる。早いなあ、びっくりするほど早いなあ。

私たちはというと、毎日プロ農家(両親)にひっついていろいろ教わっている。といっても、父は手取り足取りタイプではないので説明されて「さあ、頑張れ」という感じで、皆さんが想像する以上に手探り状態だ。

だからアグリノートなるアプリを入れて、毎日の作業工程とか畑の位置と名前(通称だったり土地の名だったり、実に様々な呼び方があるのでまだ全然覚えられない)を管理しようとしている。まだ志半ばである。だいたい有料なんだよなあ……。できれば、3か月ぐらいの無料期間で試させてほしいんだけどなあ。

それはさておき、毎日肉体労働をして汗をかいていると、まったく思考できなくなってくる。というか、思考する暇もなく一日が終わってしまう。改めて、今までの私は暇だったから頭ばっかり使っていたんだろうなあと思う(それだけじゃなくて、一応IT業という頭を使う仕事を選んだせいでもあるけれど)。

先日、妹夫婦の実家にあたるご夫婦と、うちの両親と私たちでお食事会をした。コロナのことがあるからと家で焼肉。うちの両親よりも少し年上のお二人だけども、19時スタートで23時ごろまでいろんな話をしてもらった。この島にもっと人がいたころの話、みかんの値段がびっくりするほど良かったころの話、同じく全くお金にならなかった頃の話などなど。

なんつーか、全体的にスケールが違う。そう感じるのは、私がかなりのマクロ視野だからかもしれないし、私たち年代はそれぐらい小さなスケールでしか生きていないのかもしれない。今の70歳前後は数が多かった時代だからか、なんかスケールがでかい。

たぶんいくらかの割合の人たちが誤解しているのではないか、と思われることがある。それは、田舎の人たちは慎ましやかにお金を使わない暮らしをしているという誤解。そんなわけはない。

漁業をするにも漁業券があり、畑を含む土地にはすべて所有者がいる。船を作るにしても持つにしても、すべてに権利がいる。その権利がとんでもない値段であることが多い。ほら、野菜農家とかが持ってるトラクターの値段が500万ぐらいするの当たり前、みたいな感じ。

その理由は、権利の持ち主たちがケチだからではない。独り占めしたいから、でもない。秩序のためでもあるし、自然のためでもある。

人が営み暮らす場所には、それ相応のスケールのモノの見方があり、考え方があり、経済の動きがある。

これは、私が会社員として働いていたころは想像ができなかったことだ。自分の暮らしがコンパクトでスケールも小さく、回す経済も小さなものだったから、会社として引き受ける仕事の額がどれだけ大きくてもピンとこなかったし、実感もなかった。でも、そもそも人が営み暮らすということは、相当なスケールで周りに影響を及ぼすことだったんだろうなと、今は少しだけ実感が持てるようになった。

だからこそ、連日のニュースでコロナで鬱になりかけている人の「今後の見通しが立たないのが辛い」という声を聴いていると、本当に同じ日本なのかなと思う。

いや、分かっている。同じ日本なんだ。だけとごく一部の都会の中で巡っていた「経済」が止まっただけで、日本は全土が止まってしまったかのようになるのが現実だ。

日本の国土の多くは「田舎」だと聞いた。まぁそうだろうと思う。しかし人口で見ると、おそらく7割弱ぐらい(言い過ぎか?6割強くらいか?)の人が都市部に住んでいるのではないかと思う。となると、残りの人がこの広い日本に分散して住んでいることになる。そうなると、このコロナで流行った「3密」なんて、田舎暮らしの人間にとってはギャグでしかない。

都市部に集まりすぎたんだと思う。だから影響度にも唖然とするほどの差が生まれた。

そもそも、経済ってお金によって回るものを指すんだったっけ? だとしたら、経済を別の形で回すことも考えねばならないだろうね。お金があればなんとかなる場所ほど、今はどうしようもないんだから。

と言いましても、田舎暮らしでもお金はいるからね。よく「田舎だと物がもらえるからお金がいらなくていいよね」的なベースが見え隠れする人がいるけど、某番組のゼロ円食堂みたいに「捨てるからあげる」ではないんだよ。人間関係があるからもらえるんだよ。捨てるものだからって、いけ好かない奴や全く知らない奴にまで「差し上げに行く」ことはないからね。

ここにいると、私はとても自然でいられる気がする。今日はこれから塩鯖と共に釣りに行くよ。私は釣りが苦手なのでソロストーブで焚火する。動画とるね。

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私が開設したYouTubeチャンネルです。メモ代わりに投稿した動画を貼っておく。


お花見気分をどうぞ

カラマンダリンの袋詰め

筍を剥くだけの動画

明るくなくていいんだよ

 おはようございます。今日も私はお休み。っていうか、仕事は休みじゃないんだけど、私は出番が少ないので自宅待機です。でもこれ書いたら倉庫に行こうと思ってる。

 今やってるのは、収穫したみかんの選別。農協に出荷するには選別しなければならない。正しくは、出荷に合わせて収穫と選別をしているわけだ。

 ネットで見かける情報では、農協に批判的な意見を持っている人も少なくないようだけど、うちは基本的に農協に出荷するのがメイン。だって地域の農業を活性化させようと思ったら、農協との協力は欠かせないと思うからね。

 さて、今日のタイトル。これは農業新聞に掲載されていた言葉。あるコンサルさんがこう言っていた。

 今の日本は、阪神大震災があり、東日本大震災があり、そのほか台風などの自然災害があってのコロナ禍だ。だからか、「明るい話をしてほしい」と頼まれることがあるそうだ。

 その気持ちもすごく分かる。だけどポジティブな話ばかりを聞いて、ネガティブな面を見ず、顔を上げよう、明るく行こうというのは、なかなか頷けない人も多いのではないかと思う。

 私自身そうだ。むしろ落ち込むだけ落ち込んで、絶望して初めて前を向ける。例えば過去の失恋なんかまさにそうで、何カ月もかかって「まぁ、仕方なかったよなあ」と思えてからが復活だった。途中何度か「忘れよう」とか「気を取り直そう」と心がけたが、やっぱり落ち込むところまで落ち込まないと、すぐに下り坂に転落してしまうのだった。

 私のちゃちな失恋とコロナ禍が同じだとは思わないが、個人レベルで起こっているのは似たようなものだと思っている(かなり暴力的なたとえだけどさ)。

 人は思い通りにできないときに、とてもストレスを感じる。うまくいかないと感じる。

 せっかく築いた自分のペースの生活が、たとえそれがベストでなかったとしても、外的な要因で崩されるのはとてもストレスだと思う。だけど、受け入れるしかないことが、人生には多いんだ。

 だからといって「自分のペース」を諦める必要なんてない。新しい自分のペースを築けばいい。それだけだ。

 でも、その前に一度「くそー、すっごく頑張って自分のペースを築いたのにー!」と怒って、落ち込んで、不安を感じて、途方に暮れてもいいって話。途方に暮れようと暮れまいと、明日は来る。だから「もーしょーがねーなー、仕切り直すか!」と気分が前向きに変わるのを待つのが大事だと思うんだよね、っていう話。

 客観的に見るということは、物事を主観を交えず見るということだ。それは、いい面と悪い面のどちらも認めるということだ。

 一人暮らししてたころ、私は「人生なんてなんにも思い通りにいきやしない」と思っていた。派遣社員なんて吹けば飛ぶような立場で、ボーナスもなくて、仕事辞めたら生きていけない、なんて窮屈なんだって。でも、よくよく考えれば技術があったおかげでメシに困らず、健康であるおかげで仕事にも行けて、時々ご褒美旅行が行けるぐらいに普通の暮らしができていた。束縛する家族もおらず、夜更かしも早起きも好きにできて、かなり好き勝手、思い通りに生きていた。

 過ぎてしまえば分かること、いい面と悪い面というのは、こういうことだ。

 過去に対しては、いや、過大な感情と切り離して見れるようになった過去に対しては、比較的やりやすいことだろう。これを、今の状態に対してもできるようになったら、袋小路のような現状に道が見えるようになる。

 明るさだけを求めても、必ず行き詰まる。そこにある現実、事実を見る勇気が必要だ。それが今だ。

 みんな頑張って乗り越えていこうね。

 ちなみに、占星術的に未来を見ると、2020年の1月ごろは変革期だったわけだけど(まさかウイルスとは気づけなかったけどね)、2021年の初めごろに大きな変革期がまた起こると思う。そして落ち着くのは2023年頃だと思う。より身軽に、ニュートラルに、柔軟に、自分を暮らしに合わせて変えられる身軽さがあったほうが、この大波を楽しめるだろうと思う。