寒気がやってきた
おはようございます。昨晩は前線が通過して突然冬みたいな寒気がやってきたね。昨日の昼まで30度近くあったのに、たまにエアコンの冷房入れて寝るぐらいだったのに、いきなり秋が深まったような気候で体がびっくりしているわ。
最近のお仕事は愛果28号(紅まどんな)の袋がけ。これがなぜかTwitterでは受ける。ぶっちゃけこれより大変な仕事も、地味で面倒な仕事もあるのだけど、緑の葉とオレンジの袋のコントラストが映えるのか、とにかく受ける。あるいは、紅まどんなの知名度の上昇とともに、なのかもしれない。だとしたら、私はラッキーだな。
紅まどんなを知らない人のために、これがどういう品種なのかを少し書いておこう。紅まどんなは愛媛県の試験場で生まれた新品種。南香(美保早生×クレメンティン)と天草を掛け合わせてできた品種。プルルンとしたゼリーのような食感が特徴で、甘さだけでなく上品な酸味もある。11月の下旬に初せりが開かれ、お歳暮戦線に名を連ねる高級柑橘の一つだ。
この品種は「愛果28号」と呼ばれる。一般的に知られている「紅まどんな」という名前は、糖度、酸、サイズ、外観などの厳しい基準をクリアしたもののみが名乗ることが出来る名前だ。だから「小さい紅まどんな」とか「酸っぱい紅まどんな」は存在しない。けれど「紅まどんな」の名前が知られるようになったため、似たような名前で売られることもある。でもそれは一応ルール違反。同じ品種でも呼び名がいくつもある柑橘は、他に不知火(デコポン)やクイーンスプラッシュ(甘平)がある。りんごにもあるらしい。まぁ、この辺はちょっとカオスになってるよね。
で、この愛果28号の袋がけだ。袋がけは完熟までの過程を雨などから守るために行う。ハウスで栽培すれば袋がけは必要ない。でもうちには紅まどんなのハウスがない。なので面倒だがいちいち袋をかける。軸周りの葉を取って、ロウビキので針金入りの袋でキュッと縛って、メデールというテープでぴっちり止める。
うちはちょっと一本の木にならせすぎていると思うよ。小ぶりだもん。紅まどんなに昇格できない愛果28号になるかもね。
トゲが時々あるのに、手袋ではできない作業のため、指先がすごく痛いし傷だらけになる。非常に心が萎える。でもこれより辛いのは、高級柑橘「せとか」のサンテがけだ。これは寒くなってからやる仕事だし、愛果28号とは比にならないぐらいトゲがあるし、何より数が多い。寒い時期に動かない仕事ってのは結構辛い。でも、映えないからか受けない。
割れていた愛果28号を食べてみた。今の時点で酸が切れていて食べやすい。独特の風味もゼリー食感もある。今既に美味しそうに見えるかもしれないが、完熟になると果肉ももっとオレンジ色になり、香りが強くなっているはずだ。うちでは12月ごろに収穫すると思うので、今からどんな仕上がりになるのか楽しみだ。
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キレイゴトってたくさん蔓延ってる(はびこってる)なと思う。それはこの社会にではなく、身近な日常にでもなく、私の中にも。
こんなツイートを見た。
45歳定年制が議論されてますけど僕はもっと若くして30歳定年制にしたらいいと思っています。必ず30歳でみんな一回会社を辞める。で300万円ほどの資金を渡して一年間、放浪とか農業とか工芸とか、仕事以外のことを自由にやらせてその後の人生を考えてもらう、というのが良いと思うんですけどね。
— 山口周 (@shu_yamaguchi) October 15, 2021
このツイートに対して、さまざまな立場の人が、さまざまな意見を述べていた。専業農家の多くが「随分軽く見られてるもんだ」という反応で、ちょっと農業かじってますくらいの人が「いい案だね!」という意見が多かったと思う。当然、専業農家の中にも「それもいいね」と思った人もいるし、農業に少し触れたことがある人でも「300万円ぽっちで農業ができるかよ」って言う人もいる。
私としては、少々言葉選びが乱暴だけども30歳ごろといえば「私の人生はこれでいいんだろうか」って一度は思う頃だから、悪くないなって思った。だって、30歳前後の私自身「食うために働く」ことでいっぱいいっぱいで、さまざまな経験を積む時間というのを持てた記憶がない、というかそんな余裕がなかったからだ。でも、もし300万円もらって「さぁ、いろんな経験をしておいで」って言われても、多分30歳前後の私は行動できなかったと思う。。ということを考えていたら、波に乗り遅れてしまった、というわけだ。
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この1件のツイートから思ったこと、考えたことはたくさんある。整理して一つずつ片付けていこう。
1.職業差別の意識
2.行動できない人がいるのではないか?
3.経験と知識
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まず「職業差別の意識」。農家って下に見られることが多い、という一般意見に私も同意する。「職業に貴賎はない」とはいうものの、肌で感じることはある。ということは、私の中にも農業を下に見る意識も、そう見られているんだろうなという意識も、あるということだ。だから肌で感じるのだろう。
差別というのは、人から生まれてくるものだ。ゼロにすることはとても難しいと思う。それは「差別することで自分を守る人がいるから」ではない。「自分は大丈夫」と思って安心することが、ゼロを遠ざけるのだと思う。
すごく正直なことを言うと、差別なんてなくならないだろうと思っている。だけど、差別で苦しむ人は減ってほしいと思う。だから、せめて自分だけは「差別の意識」を持っていることを意識しようと思う。焼け石に水かもしれないけど、それでも「どうせゼロにならないから」と放棄するよりいいと思う。
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次に「行動できない人がいるのではないか?」ということ。これは件のツイートを読んで、私はまず「300万円もらっても経験を積むことができず無駄金になる。だから前述のツイートを実行しても、今の段階では半数以上が無駄になるんじゃないか」と思ったのだ。実際私がそうだったからだ。
生き方や仕事の仕方についての啓発本は、信じられないぐらいたくさんある。私がどっぷりハマっていたスピリチュアルだけって「よりよく生きるためのもの」だ。誰もが「昨日より今日を、今日より明日を、今より未来を、よりよく生きたい」と望んでいるのだと思う。それが具体的に「お金を稼ぐ」だったり、「健康になる」だったり、「いい人になる」だったりするだろうけど、いずれにしても「今日より明日を、よりよく生きたい」からだ。
で、どっぷり自己啓発系スピリチュアルにハマって思ったことがある。それは、お金と時間をかけて勉強しなくとも、身についている人がいるということだ。それは夫と親友の二人。しかしこの二人が達観し尽くしていて禅の境地というわけではない。ちゃんとそれなりに苦悩もあればストレスもある。でも、ちゃんと「今を生きている」のだ。
で、煩悩に振り回されている私は、この二人の共通点はなんだろうと考え、行き着いた。「二人とも、大病によって“昔のように“ができなくなっている」のだ。
頭では、日々衰えることも、もしかしたら事故って死ぬかもしれないことも、病気になって今まで通りにならないことも、理解はしている。でも、経験はしていない。だから今日も好きなものばっかりモリモリ食べてみたり、怠惰で杜撰な日々を送ってみたり、やりたいことを後回しにしたりする。もちろん、前述の二人もそういう日があるだろう。でも、肝心なことは後回しにしていないんじゃないかと思う。そして私は、肝心なことを後回しにしているんじゃないかと思う。
ということが分かっても、私は多分動けなかったと思う。それは失敗して恥をかくのが嫌だからだ。自信も無くすし自分が嫌になる。自分の失敗を全く許せない。これがすごくあった。
だから、人の失敗にも寛容になれなかったと思う。まさに「失敗を許せない日本」そのもの。ピリピリして、世間体を気にして、何をするのも人の様子を伺ってから。自分の考えや感覚よりも一般論を優先する。
でも当時の私は「自分は大丈夫、そんなことない」と思っていた。これが先に「差別の意識」でも書いた、「私は大丈夫」という勘違い。自分で自分を生きづらくしていることに、無意識に人を傷つけていることに、気づかなかったんだと思う。キレイゴトを並べ立てて、息苦しくなっていたのだ。
かといって、いきなり私が別人になることはない。できることは、コツコツと小さなことを積み上げることだけだ。それを続けるためにも、常に敏感でいたい。だから意識し続けていようと思う。意識にあるのと、ないのと、その違いは大きい。
こうした、ごくごく当たり前のように感じる「失敗を恐れない」とか「自分は大丈夫と別格視すること」を、自己啓発系のスピリチュアルで身を持って肌で学んだ。少々強引なぐらい、きつい言葉も受けた。でも、そうしなければきっと私は「頭では分かっているけど、あなたも同じ穴の狢なのよ」ってことを分からなかっただろう。だからすごく感謝している(現在は離脱)。
私のように、わざわざ時間とお金をかけて勉強しないと分からない人たちもいる。プライドが高いとかビビリとかいろんな理由があるけど、とにかく行動を起こせない人はいる。最初に戻るのだけど、そういう人は経験の価値を実感していないから、300万円もらっても経験を積むことができず無駄金になる。だから前述のツイートを実行しても、今の段階では半数以上が無駄になるんじゃないかと思う。
ではどうしたらいいのか。荒波に放り出す? みんな一斉に勉強する? 私はどちらでもいいと思う。今は選べる幸運な時代なんだもん。大事なのは、許せる余裕を持つことだと思う。自分も、他人も。誰もいきなりマスターになんてなれないんだから。
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やっと最後のテーマ「経験と知識」。これはどちらもあって初めて意味が生まれる。この「意味」というのは、超個人的な意味だ。でもその超個人的な意味こそが、多くの人の潜在的な部分に触れる、いわゆる「人を動かす言葉」になるところだ。もちろん、人を動かさなくてもいいし、誰かを感動させなくてもいい。自分だけが変わってもいい。それでも、そうした人に触れることで影響を受けることなんてたくさんある。そうして、一人一人が自覚を持って「今日より明日が、より良くなればいいな」という意識を持つことは、今の、一人一人の生きづらさを変えていくことになるんじゃないかと思う。それがやがて未来の地球を変えるんじゃないかと、私は思っている。
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ひとつのツイートのおかげで、たくさん考えることができた。だからTwitterはやめられない。ありがとうございます。
念願の雨が降るらしい
おはようございます。今日はね、念願の雨が降るらしいっす。念願のっていうのはね、私の疲れがピークに達してて、そろそろ丸一日休みたいなあっていう意味での念願ではなく、みかん的に念願です。だってもうしばらく雨が降ってないのよ。
さて。
最近の出来事を少し。松山三越に、ゴディバの地域密着店ができた。これは世界初の試み。愛媛の名物といえば柑橘。その柑橘とゴディバがコラボした商品がここだけにあるというもの。
松山市にはすでに伊予鉄高島屋にゴディバがある。ここはいわゆる通常のゴディバが買える場所。松山三越のゴディバは一六タルトでお馴染みの一六さんと、ゴディバのコラボ商品、また松山三越のゴディバオリジナルの柑橘を使った商品と、ゴディバのチョコレートが買える場所。イートインコーナーもあるよ。
ここでしか味わえないのがこれ、フローズンドリンク。白いからミルクかと思いきや、ホワイトチョコレートなのである。ホワイトチョコレートと柑橘の組み合わせって、実はあんまり多くない。だって黒いチョコレートの方が合うからな。と思っていたのだけども、そこは流石のゴディバ様! とんでもなく美味しい代物だった。もうこのために、はるばる松山三越まで行くと思うわ私。ちなみに奥のフローズンドリンクは妹ちゃんが飲んだ50%カカオのドリンクです。こちらももちろん美味しかった。でもオリジナルの方が絶対美味しい。
こちらは一六ゴディバタルト。帰宅して食べたのだけど、なんともまぁ「格が違うタルト」。私ね、タルトは六時屋が一番好きなんですけど、このチョコ度合いといい上品さといい、カステラ部分の美味しさといい、全く別物でダントツだった。
とはいえ、普段使いでゴディバなんて高級品すぎる。今回は1個ずつの販売だったけど、贈答用のパッケージなりが販売されたら絶対「贈り物」として使うと思う。それぐらい、これはすごくいい、重宝するものになるだろう。
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そのほかの仕事としては、カラマンダリンの枯れ枝を切りつつ、秋芽を切ったりしていた。枯れ枝というのは、葉が茂ると必然的にできるもの。だから終わりがない仕事なのだが、枯れ枝に黒点病という病気がついて、果実に黒い点々をつけるため、理想としては「枯れ枝ゼロ」にした方がいい。あくまで理想だけども。枯れ枝って垢みたいなものだから、無くしても無くしてもできるんだもんよ。
そんな仕事の過程で、おそらくメジロと思われる巣を見つけた。葉っぱが混み合ってくると、小さい鳥の住処としては絶好の場所となるのだ。でも、柑橘栽培においては「鳥に巣を作られてはならぬ(そんなに葉を密に茂らせちゃだめ)」なわけで、すまんな。
そして毎朝行ってるのが猪罠チェック。うちの罠はうちで面倒を見る。昨日は地域の罠の見回りもあったのでね、朝のスクワットをサボったね。だって出発が6時だもん、早すぎだべ。でも朝早くの海岸沿いで綺麗な朝日を見れたからよし。
そしてこちらは土管の設置。もともと細い土管が埋まっていたのだけど、水が大量に溜まるので土管を大きくした。父が掘り起こしてくれていたのだけど、この日の最高気温は30度。塩鯖と共に、全員汗だくで掘って埋めてのお仕事だった。
土を扱う仕事はどれをとってもしんどいものだが、それでもまぁまだマシだったかな。筋肉痛にはならなかったし。
この排水設備はセメントで固めたりして補強してます。セメント万能。だけどうちはほぼ手練りだから、練ってた塩鯖は地獄のようだっただろう。ありがとうね。
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さて。最近すごくはてなブログがあって良かったなあと思っている。というのも、ここ以外ではうまく文章が書けないからだ。
追って整理してゆこう。私は4年前に心理占星学の講座を受講し始めた。生きづらさをなんとかしたいと思った、、んだと思うんだけども、もしかしたら「特別な人になれるかもしれない」と思って受講したのかもしれない。まぁ、とにかく今の自分はダメだなと思って受講し始めた。
で、3年間はどっぷり講座に浸かっていたら、自分の文章を書けなくなっていた。それに気づいたのが4年目の今年だった。
自分の文章が書けないということを経験した人がどれぐらいいるだろう。もしかしたら今の時代は多いかもしれない。読まれる文章、売れる文章、共感される文章などなど、文章の書き方の講座やらセミナー、書籍も信じられないぐらいある。
どうせ書くなら読まれるものを書きたい、そう思う人もいるだろうし、今はオンラインの色々もたくさんあるので、興味を持ってもらう入り口として読まれる文章を書きたいというのもあるだろう。さまざまな動機があると思うが、「読まれる文章」に注力すればするほど、自分の思いや書きたいものが遠のく。私はまさにそれだった。
ブログを前に、書きたいことが書けない日々。そんな数年を過ごして思ったのは、あんなに楽しかった「書く」という行為が苦痛に変わっているということに、できれば気づかずに(知らないふりをして)いたかった。でも、現実にはあんなに湯水のように溢れ出てきてた思いや考えが、ブログを前にするとまとまらず、実際に記事量も増えていないのだ。認めるほかなかった。
で、そんな時でも書けたのがはてなブログだ。はてなブログだけは私の聖域だった。ここは自分の好きなことを書くと決めている。そう決めているのがとても良かったのだと思う。「売れよう」とか「読まれよう」とか「共感されよう」とか考えていない。読者数だってほれ! 増えておらん!!笑(いいのだ、本当に、興味がある人が読めばいいと思ってるから)。
「読まれないのになんで書くの?」そう言われて、一時期ははてなブログからも遠ざかった。でも、あそこで手放さなかった自分を褒めよう。
私は私のために書く。それ以上もそれ以下もない。書くのに理由もいらない。だって、好きに理由がいらないように、私は書くのが好きだから。
作業日誌かこれは
こんにちは。おお、結構いい時間になってる。なんか微妙に眠くなる夕方だ。
さて、昨日はモノラックを取り付けたり荷台を取り替えたりした。これがまたけっこう重い。具体的な重さは分からないが、ホントにまぁまぁ重い。そうさね、男二人でも「よっこらしょ」がいる感じ。
こういうのは、取付しやすいってことがほぼない。そういうところに、モノラックだからな。(この写真では、畑側が1.5mほど下にある。つまり、またいで踏ん張ることはできないところ)
あと、最近猪との攻防戦がすごい。わなを仕掛けているのだけど、弾いていかれる。ということは、通っているということだ。通っているのに捕まえられない。悔しいっすわ。
でも、通り道に間違いないので、そのうち必ず捕まえます。そのころには塩鯖氏が仕留められるかもね。
福島から桃が届いた。奇特な人で、うちで作ってるもの全部送るから、そちらが作ってる柑橘全部欲しいとのこと。それで初夏からずっとひたすら桃が届いていたのだ。すごいだろ。
桃の世界は全然知らなかったけれど、涼しくなってからでも全然種類があるみたいで、岡山ではクリスマスにも桃があるらしい。もうミラクルだよね。っていうか、日本の果物市場おかしいよね。おかしいっていうか、サイズも概ねおかしいよね。
大きくなるタイプなのかもしれないけど、葡萄もさ、シャインマスカットはもう筋トレかって重さじゃない? 柑橘も紅まどんなはまぁまぁでかいし重いのよ(手首が痛くなる)。りんごもかなり大きいし、ねえ、日本の果物巨大化しちゃったの? ここはジュモークなの?(ACCAネタ)
本当に、日本の果樹農家の「消費者に応えるスキル」ってすごすぎると思う。そういう品種を作り出すことも含めて。
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さて。
私は時々塩鯖に「人間人事評価」をしてもらっている。とはいえ、給料が決まるわけでもなければ待遇が変わるわけでもない。ただただ、私の客観的評価を教えてもらっているだけだ。
でも、これってすごく大事だと思っている。だってどう頑張ったって「私」は「私の主観」から逃れられないから。「他人から見た自分」を知るためには、他人に教えてもらうのが一番いいんだ。そしてそれは、一番身近な他人がいいんだ。だから私の場合は配偶者である塩鯖。
今までの評価を記しておこう。
- 我が我がって言い過ぎ
- 頑固になってて話を聞かない
- 攻撃的
- 考えすぎ
まぁ、ろくな評価はない。でも事実だろうと思うが、聞いた当時は「( ゚Д゚)ハァ?」って顔してたと思うけどね、キレ気味で。
しかしね、今回はすごいよ、いい評価もらったよ。
- A+
- 力んでなくてちょうどいい
実際のところ、私の本質は何ら変わっていない。相変わらず「我が我が」だし、頑固な方だし、考えすぎる。でも、攻撃性はなくなったと思う。それはなぜか。日々の労働に体力を奪われて臨戦態勢に入る余力すら残ってないからだ。なんてね、冗談だよ。
たぶんね、ルーズになったからだと思う。適当になったんだ、すっごく。昔は「これはこうでないとダメだ」がすごく多かった。自分もそう信じて疑わないから、いろんなことが忙しかった。しょうもない(当時の私にはしょうもなくない)日常の様々にルールがある感じだ。
でもそれをやめた。本当に手が回らなくなったのもあるし、多少どうにかなったところで、どうにかなるもんはどうにかなるし、どうにもならんもんはどうにもならんと悟ったからだ。
その悟りを開いた塩鯖の一言はこれだ。
もしね、天罰が下るのが世の理なら、なんで殺人とか強盗をした人が天に罰せられない?
確かにそうなんだよね。天罰なんてないんだよ。あるのはたぶん「罪悪感」だけなんだ。それも個人によって重さなんて違う。人から金を奪っても平気な人もいれば、何気ない一言で傷つけたかもしれないことを一週間悔やむ人だっている。そう考えたら、「私は何を恐れてダメダメの世界に来ていたんだ?」と思ったわけだ。
でね、思ったのが「思わぬ不幸に出会いたくないから」だった。できる限りリスクは減らしたい、できる限り不幸に見舞われたくない、そういう「起こってもいないこと」に振り回されてダメダメの世界に生きていたわけだ。
でもどうだ。なんとでもなる。究極を言えば、私がいなくても何とでもなる。それぐらい私がコントロールできることなんて細やかなものなんだ。そう思ったら、「あいやー、バカバカしい!」と思ったのだ。
それから徐々に、時間はかかったものの、ここまできた。今やもう「多少のことはどうにでもなる」だ。外出時の荷物もシンプル。予期せぬ宿泊となっても、財布とスマホがあればなんとかなるだろってぐらいには図太くなった。
これで力みが抜けたんだと思う。いやもっとほかにも理由があるだろうけど、とりあえず思い浮かぶのがこれってことでね(出たルーズー)。
我が我がについては、たぶん今も基本的に変わってない。だけど塩鯖はこう言う。
「いいんじゃない、独特なところがいいから、そのままで」
独特さ、それはなんとなく分かる。たぶん私は独特だろうと思う。それは私がユニークだという意味ではなく、なんか独特なのだ。
確実に大人数でわっしょいするタイプではない。人を取り纏めたりするのも下手だ。でも、場末のスナックのママ(気難しいので来る客は選ぶが、酒も飲まずに相手して、たまにいいことを言う)ぐらいはできそうな気がする。やらんけどね。
ということで、後半戦は「私の評価が最上級まで上がったよ!(もしやあとは下がるだけ!?)」というお話でした。ではまたね。