生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

素直に謝れない人についての勝手な分析

 ごめんなさいとありがとうが同じ価値になってきてどうなのって思う。


 温めたわりに平凡な答えですが、謝罪の質にもよるんですよね。口先だけの謝罪なら、いくらでも言うし、聞くし、な生活です。謝罪は罪を認めたことではなく、罪に対してのみ謝るだけで、それに対する損害の云々は別の話、責任さえも別の話なんです。だから謝罪の言葉はよく聞きます。もう先に謝られるとかね、ほぼ毎日。それは挨拶ぐらいの軽い謝罪。すみません、ごめんなさい、から話が始まるのはもう慣れました。「ごめんなさい、資料見てないけど教えてください」「申し訳ありません、資料見てからきてください」ですよ。

 一番強烈なエピソードは、平社員だった子が議事録書いて、下手だったんで手直しを命じられたんです。でもそこは自分が発言したところで下手ではあるが正しい意味だった。それを違う意味に書きなおせと言われて散々もめて、最後に「じゃあそれでいいよ」と上司が言ったとき、その子が「わたしに謝罪してください。謝罪を要求します」っていったやつです。あれは聞いた話だけど関連した人がみな同じことを言うから真実なんだろう。でも謝罪ってそういうときにこそ使うものだよね、と思いました。最初は詳細なんて知らず「あいつ上司に謝罪しろって言ったんだよ」と聞いて「ほぇーすごい子ね」と思ったけど、詳しく聞いたらうなずける。

 わたしはというと、残念ながらつまらないことはすぐに謝るけど、特にプライベートはそうだけど、仕事となると最近はないです。同じように議事録を書くことがあったんですが、議事録1つ、A4一枚に6往復だよ。句読点を直せ、注釈を付けろ、まではいいけれど、発言しなかったことを書けと言われたとき「発言されてない言葉を書くのは議事録の趣旨が違う。報告者に名前は載せてもいいが併せてお前の名前も書け。直したいならそれで好きに直せ」と言いました。全然謝罪する気にならなかった。正しくないもの。嘘の責任をかぶるほど、お人よしじゃない。

 社会という大きな単位になると、嘘の責任でも負えばOK、許されると思ってる人がたくさんいるようです。その場限り。謝罪と共に辞任すれば責任の対価を支払ったというのは、いつの時代からなんでしょう。知ってる限り、わたしが日本の政治家だなって思う人は黒い、真っ黒だけど、言うだけのことはやったと思うんだが。

 粘れっていうわけじゃない。しぶとくそこに座っておく肝もたいしたもんだと思うけど、座ってるだけなら人形でいい。

 甥っ子があんまり謝らないんです。5歳、ごめんなさいを素直に言うときはたいてい泣いちゃいます。意味が分かってる。2歳、ごめんちゃーいと言いながらアンパンチしてきます。前者はまだ修正できるが、後者は修正できるかどうか自信がありません。嘘です。自信あります。正しく使うように教えることぐらいはできると思うよ。

 思ってもいないことを、場のために言うのは「ごめんなさい」の意味を知らないのと同義、と思う。