生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

臨床とことば

臨床とことば

臨床とことば

 図書館の本をぎりぎりまで温める癖がついてしまったようで、これは悪しき習慣。けれど、この本は本当に面白かったなあ。

 権威というのは、その集団に属していれば発揮されるものかもしれないが、その集団にいなければなんの脅威もないものだ。だけれども、私たちは人生のどこかで出会った「権威」を一緒くたにして「この人は偉い人らしいで」というフィルターをかけがち。それ自体どうともないのだけど、だから話が分からんとか、だからこの人の言うことは正しいと言い出すと、大いに誤る。けれど、これは恐怖からそうするのではなく、面倒くささからそうするんじゃないかと思う。誰もが権威におののくわけじゃないもんね。

 さて、そんなことはどうでもいい。

 この本の中では、人は偶発性の中に生きていると書いている。ハッピーとはハプ(ハプニング)だ、とも。こう書くと難しそうだが、難しさがあるわけではない。臨床心理士として患者さんに向き合ってきた河合先生は、患者さんがいくつもの偶然の出来事を経て治癒してゆくさまを見てきたのだそう。そこには「なぜこうなった」とか「だからこうしている」という理屈はなく、ただじっと耐えたり、やり過ごしたり、あるいは言葉を心の隅に引っ掛けて過ごしたりしていたら、偶然の方からやってきてあれよあれよと心持が変わり、行動が変わり、鬱やノイローゼから脱してゆく(治癒してゆく)ことがあるのだそうだ。それも少なくない数で。

 学会で「偶然よくなっていったんですわ」と言ったらバカにされる、と書いている。事実であったのだろうと思う。人は科学的に因果を説明したいところがあるし、双方向で説明が叶うものを「真実」と思いたいものだ。それは林修さんが言っていた「努力は報われて欲しい」というのにも似ているし、先に書いた「権威にはそう振舞っておくのが妥当」というのにも似ている。要は近道をしようとしているのだ。けれど、なにからなにまで理由付くわけもなく、因果が結びつくわけでもない。いや、長い人生をかけて走馬灯の中であらゆる因果を見るのかもしれないし、そんなこともないかもしれない。

 それ(理由や因果や根拠)を追い求めるロマンの人生もいいかもしれない。けれど、自分はどうなのだと問うといい。追いつけないものを追い続けるロマンだけで満たされる人なのかどうか、と。

 この本の中で取り上げられていた円谷幸吉の遺書をWikipediaから引っ張ってきた。川端康成三島由紀夫の言葉もある。美しいと感じるも、退屈と感じるも、それこそ個人の自由だ。だけどもこの遺書には神々しさがあると思う。文章の、ことばの、という垣根を超えたもの。人は詩を書き、俳句を詠む。これらのすべては、ここに繋がり、その先へと進んでいるのではないかと思う。

父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿 もちも美味しうございました。
敏雄兄姉上様 おすし美味しうございました。
勝美兄姉上様 ブドウ酒 リンゴ美味しうございました。
巌兄姉上様 しそめし 南ばんづけ美味しうございました。
喜久造兄姉上様 ブドウ液 養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄姉上様 往復車に便乗さして戴き有難とうございました。モンゴいか美味しうございました。
正男兄姉上様お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、
良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、
光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、
幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、
立派な人になってください。
父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
何卒 お許し下さい。
気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。
遺書の全文(原文ママ)

 川端康成はこう語る。

「相手ごと食べものごとに繰りかへされる〈美味しゆうございました〉といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる。そして、遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ」

 三島由紀夫はこう語る。

「円谷選手の死のやうな崇高な死を、ノイローゼなどといふ言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きてゐる人間の思ひ上がりの醜さは許しがたい。それは傷つきやすい、雄々しい、美しい自尊心による自殺であつた」

 私はこの遺書を読んで涙した。そして同じ種類の涙を流したことを思い出した。長嶋有の「夕子ちゃんの近道」の終盤、この一文に出会った瞬間だ。

「君は、この僕が畏れ敬う数少ない人なんだから、どんなときも泣いたりしないでよ。」

 この一節を思い出すだけで泣けてくる。この涙が何を意味するのか、私は初めて読んだころから分からない。あえて言うならば、自分の中に芽生えた祈りや畏怖に、自分自身が震えているのだろうか、と思う。それは畏怖する対象がものであろうと、人であろうと関係ない。自分の中に「敬いたい」気持ちがあることを、思い出させてくれることに涙しているんだと思う。

夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)

夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)

 ここのところ、考えることを放棄しようとしてみている。けれど、それはまぁ無理な話。だから答えの出ないことを考えるのを止めることにした。分かっているのだ、答えが出ないことに「今のところ」の答えを出したところで、なにもスッキリするわけじゃないってこと。

**

 そういえば、レビュージャパン(今はもうないサイトらしい)に投稿していた書評(あるいは、その写しであるはてなダイアリーのログ)のデータが見つかった。2000年前後ぐらいの140件ぐらい。すっごい暇な時にここに移植していく予定だけども、昔のデータなので日にちが分からないっていうね。恥ずかしいほどに、偉そうなこと書いてる私(笑)