神との対話(今更)
- 作者: ニール・ドナルド・ウォルシュ、吉田 利子
- 出版社/メーカー: サンマーク出版
- 発売日: 2002
- メディア: 文庫
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かなり前に出版されてブームになっていたそうな。知らないから最近読み始めた。今1巻が終わったところ。
これを真実ととらえるか、個性ととらえるか、うーん、面白いハウツーととらえるか(?)、ご自由にどうぞなところだけれども、面白い本だと思う。今のスピリチュアル界はおおむねこの思想ではないかな。いや、違うのもあるだろうけど、違いとか別にどーでもいいというか、ははは。最近なんでもどーでもいい、というと語弊があるな、どっちでもいいんだ、私。
この本の中で「医者がいるから病気がある」みたいなことが書いてあって、ネットでよく見る「医者陰謀説」ってここから来たのか? ってちょっと思った。私はアンチ医者陰謀説なのだけど、この本ではあそこまで凶暴には書いていないので、一部だけ取り出して過激に解釈したんだろうなと思う。いや、この本がなくても、医者がいるから病人が増えるっていう人はいるだろうね。いてもいいんだけど、やたらと攻撃的なのヒステリックに見えて近づきたくないなと思う。
先日までの私ですね、ええ知ってます。時々ぷんすこしたくなるんだよ。
20代ぐらいで読んでたら心酔しきってしまったかもなあと思う。でも、あの頃の私は小説以外の読み物は興味がなくて、逆に良かったかなと思う。
魔法のお仕事のサイトでは書いたけれど、私はずっと、目から鱗が落ちる瞬間を待っていた。私が生まれてきた意味とか、私の存在意義とか、世の中の正しさとか、何が正義で何が悪なのかという答えが、あるものだと思っていた。それが私の目の前に突然現れて人生の道筋が明るく照らされることを、私はどこかで待っていた。
けれど2回目の成人式を迎えて分かったことがある。誰しもの道を照らす明かりなどないのだ、ということ。そもそも、そういう概念自体がナンセンスだったな、ということ。そもそも道は、明かりが必要なほども暗くないのだ。たぶん。
私は自分より生き生きとしている人や、迷いのない人や、楽しそうな人を見ると、あの人たちは人生が明かるんだろうと思っていた。それに引き換え私の人生の暗さったらなんだろうって。そう思っているうちは、たとえ目の前に答えがいくら現れようと、まったく見えない。超親切な人が「これよ、あなたの答えはこれよ」って見せてくれても「違う」って感じると思う。答えを求めていながら、その答えはとても限定されている。だから答えなんて見えないし、道だって暗いままなのだ。
ではどうやったら見えるのかというと、視野を広げるだけでは全然足りない。そもそもの位置、意識のレベルを上げられるかどうかの問題なのだ。
塩鯖や親友は、スピリチュアルの学びとか、ワークショップとか、全然必要ない人たちだ。生き生きと生きていて、迷いがなくて、自分がやるべきことが分かっている人たちだ。私はスピリチュアルをしっかりと学べば、私もそうなれるんじゃないかと思っていた。けれど、どうも全然違ったようだ。と同時に、まさにその通りだったようだ。
この本、といってもまだ1巻しか読み切ってないけれど、私たちは体感するために生まれてきたんだから、いろんなことを体感してゆけばそれで命を全うしていると言えるのだ、みたいな感じのことを書いていた。あいまいなのは、受け手によって違うだろうから。喜怒哀楽、ドキドキもワクワクも全部、それをやるために生まれてきたんだって。だから生まれた後からついてきた、誰かが教えてくれたこととか、失敗の恐怖からとか、とにかくやらない理由は存在しないんだって。ときめいたらやれ、それだけなんだって。
これは親友も塩鯖も同じことを言ってる。彼らの言葉で言えば「でも、やるしかないでしょ? できること、やるしかないでしょ?」だ。そうなんだよね、そんな簡単なことなんだよね。だけどできない、怖い、嫌だ、したくない、それをいかに正当化できるかに、私は随分と長い時間をかけたように思う。けれど、これもまた経験の一つと思って、じゃあこれからはなにをしようかな、だ。
数年前から続いている私の「やりたいことが見つからない病」も、本当は「やりたいことを見つけたらやらなきゃいけないから見つけたくないんだけど、それはあまりにも消極的だし後ろ向きだから見つける努力をしよう、そのためにスピリチュアルに足を突っ込んでみた病」だと思う。どこまでも世間体を気にしている。けれど、この中に真実は含まれている。今現在の自分に、違和感を感じているということ。なんだか違う、何かが違う、自分じゃないみたいな気がする、これを感じていたから、答えを探しに行こうとしたんだと思う。それ自体は、魂通りのような気がしている。
そもそも、スピリチュアルに入る人と、入らない人の違いは、それほどない。霊性が高いとか、霊感があるとか、念力使えますとか、気を操れますとか、そんなのもどうでもいい、きっと。私と親友は全く違うタイプだし、今ややってることも全く違うけれど(一緒に働いていたんだよ、奇跡のようだね)、同じ位置というか、同じなんだと思う。彼女は、社会に出てきた子たちに仕事とは、会社とは、働くとはを教えながら、生きざまを見せている。私はこれから、スピリチュアルも含めて心地よく、自信をもって生きるための方法を生きざまを見せながら実践していくんだと思う。
もう今となっては私のIT技術なんて時代遅れだ。だけど、私はBASICもアセンブラも一応できる。IT技術は発達するだろうし、もっと便利になるだろうし、きっとプログラミングなんて言語を知らなくてもできるようになるだろう。けれど、設計書を書くこと、設計図を作れること、プロジェクト単位の視野を持てること、これらは永遠に損なわれない技術だと思っている。
私は単にパソコンをいじって仕事したくて、IT業界に進んだ。基礎であるプログラミングや設計はそこそこできたけれど、社会に出てからの経験があってこその成長だった。次からは、この経験を基礎として、新しいものを作るのだと思う。そう考えると、とても自由だと感じる。それは、定刻に出社しないといけないとか、サーバー室に入るには認証が必要といった物理的な制約から逃れられた、ということではなくて、たとえそうした制約があったとしても、誰も足を踏み入れていない新雪に、足跡をつけるような自由さが、どのシーンにおいても必ずあるという感じだ。
そういうわけで、魔法の仕事はこれからも続けてゆくし、私は技術屋メンタルを持ち続ける。大間違いだったらどこかで気づくだろう。その時に方向転換したって、時間は十分にあるはず、と妙に自信をもって言えるな。
ちな、この本までにシュタイナーの本はいくつか読んだ。なかでも魂のこよみはとても興味深かった。私は来年、この詩とともに生きてみようと思う。