生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家二年目~

ほぼ愚痴的ななにか

 おはようございます。珍しく書類仕事に追われていて、放心状態なので休憩です。紙仕事って全然上手じゃないんだよなあ。昔からトロすぎて「あんた事務員向いてないわ」って、何度となく言われたことがあるこのワタクシめが、絶賛紙仕事中です。世の中って本当によく分からない。

 ちゃんとやってますよー。ちゃんとできてますよー。

 さて、続きは犬のことと私のことだ。

 まず犬のこと。四国には四国犬という日本古来の犬種がいる。年末に一匹、そしてつい先日二匹保護された。普通に考えて、気軽に飼おうといえない犬種である。それが三匹も山中をうろついているのだから、普通じゃない。連続五匹ぐらい柴っぽいのが保護されたこともある。この時も普通じゃないとみな思ったが、だからといってできることはないのが現状。

 なぜ、年老いた犬を捨てるのだろうか。ついつい考えてしまいがちである。分かっている、その問いの答えはおおよそ「邪魔になったから」だ。その答えにたどり着いたとして、私の腹が立つだけだ。これが犬猫なら、愛護団体が騒ぐので耳にすることもあるだろうし、簡単に想像できることだ。けれど観葉植物だったらどうだろう? ちょっと汚くなったから、意図しないサイズになったから、枯れてるように見えるから、様々な理由でゴミとして捨てる人も少なくない。植物はしゃべらないから考慮されることも少ないが、私はどんな植物であろうと、完全に枯れてしまって朽ちてなくなるまで捨てられない。もしかすると、春になれば、そう思ってしまう。

 けれど植物も動物も、法的には所有物、モノである。だから所有者の勝手だ。そりゃ遺棄したり虐待するのは法に触れるけれど、観葉植物の少なくない量が廃棄されてゆくのを思うとやるせない。

 ものとはいえ、命のあるもの。それぞれに大事にしてほしいと思う。しゃべらなくても、命は命だ。人にやさしくされたいならば、すべての命にやさしくしてあげることだ。それが一番、優しくされることなんじゃないだろうか。

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 おしゃれ雑貨屋さんでドライフラワーになっているキセロを見かけることもあるが、キセロはちゃんと水をやれば立派に大きくなる。最後の写真は、見切り品で買ってきたエアプランツで、半年ほどかけて緑が濃くなっていった。植物だって生き物だよー。

 で、次に私のこと。

 私ってすごくおせっかいで、余計なお世話が大好きだなあと改めて思った。でも、これには条件がある。私が手を出したくなるのは、昔の自分のような人に対してだ。それ以外の人にはそうしようと思わない。性格が違い過ぎても同じく、なにかしてあげようなんて思わない(ひこさんは違い過ぎて面白いので、何度も逆鱗スイッチを押している。かといって、相手が嫌いでそうしているのではなくて、また逆鱗スイッチかどうかも分からず押しちゃってるので、ひこさんは全然気にしない。そういうところが好きだ)。

 過去の自分のように思える人であっても、私でないのだから別人だ。だから私ができることなんてないだろうと頭では分かっている。けれどどうしても、手を差し伸べたくなるのだ。性格というしかない。以前はそこから依存関係になることもなくはなかったが、そもそもが依存されるほどできた人間でもなければ、誰かを支配することにさして興味がないタイプである。じりじりと、あるいはスパッと疎遠になることが多かった。

 ぐじぐじという相手に対しては、別に相手が悪いって責めてるわけじゃない。ついつい手を出してしまう自分に、大いに非があるんだよ、ってことだ。なんでぐじぐじ思うのかというと、結局私の言葉が届いていないからだ。正確には聞こえているけど響いていない、ということ。それは信頼関係の有無とかもあんまり関係なくて、その人が聞きたくないことなら聞こえないものなのだ。私が嫌いで、私をバカにしているから、アドバイスが届かないわけではないのだ。でも私はうっかりそう思ってしまう傾向もあるから辛くなる。けれど、これは自分で越えていくしかないものだから、いい意味での諦めをしっかり持っていこうと思う。

 あと、あれも嫌いだ、知ったかぶり。いや、実際に知っていることなのだと思う。だいたい今の世の中ちょっとググればなんでも分かる。理屈だけはあふれかえっている。だから理屈は知ってる=それは知ってる、何だろうけど、じゃあそれやればいいじゃん、っていう話だ。それに対して「やろうと思ってる」状態が続いてくると、やる気がないんだなと思う。やる気がないんなら、泣いてるだの悲しいだの言ってる姿を見たくないなと思う。

 溝に落ちたまま「冷たい」と言ってるのと同じ、溝から出ればいいよと言っても、知ってる、分かってる、でも「冷たい、辛い」って言ってるような感じ。なぜ溝から出ないのか、それは溝に落ちた状態の自分にメリットがあるからだ。同情を買えるとか、かわいそうでいられるとか、声をかけてもらえるとか。これはあくまで極端な例(でもないか?)だけど、シンプルにしていくとこうなっているケースは少なくない。

 ん? きっと、こういうときは「そうだね、溝に落ちたら冷たいし辛いし悲しいね」って言うのも正解なんだろうなと思った。そしたら納得して出てくるかもしれない。女性は共感が必要っていう一般論(単純にはうなずけないが)ってこういうことだよね。分かるけれども、いちいち、何度も、繰り返し、それはできるのかな私、と思う。

 私はクソポジティブな人間ではないし、生活そのものは派手ではないので、SNSでポジティブアピールはしない。私以外の人が見たらつまらん日常を、例えばモンに新芽出たなとか、キセロが機嫌よさそうだとか、大事に大事に生きている、それが私の充実であって、いいねの数やコメントの数が充実ではない(はてなブログも別にスター欲しさでやってるわけじゃないし、誰かに見やすいように書こうなんてさらさら思ってない。でもいつも読みに来てくれる皆さん本当にありがとうございます)。

 だから今以上に、仕事としてのSNS以外は減らしていこう。見たくないものを見に行って、見たの見たの腹が立ったの! というのはあまりにも子供じみている。私がね。