生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

雑多に、豊島美術館からSFな発想へ飛ぶ(つまらんよ

最近、いろいろ見たい聞きたい読みたいがあって、選びきれないから選んでない。

新海監督の映画が公開されている。見たいなあと思うけど、例によってDVD待ち。今回はラッドが音楽を手掛けている。もう最高になるしかないだろう。ラッドも新海監督も大好きだ。「若者に人気」と言われると「いろいろすみません」って思う初老の年齢ですが。

私だけかもしれないが、10代のころよりも、20代のころよりも、40台を目前にした今のほうがいくらも素直だ。一緒にいる人が塩鯖だからというのもある。彼は私の好きをけなさない。否定しない。理解を示さないときでも、怒ることはまずない。これは普通のことだと思うのだけど、数年前の長い気の迷いのとき、一生分ぐらい経験した「否定」は、否定は。

私の心のどこかに、あれ(もう人扱いすらしないほど過去)を見下していた部分があったことを、あれは感じ取っていたのだろうと思う。人は思っているよりも、ずっとずっと敏感でストレートな生き物だから、どれだけ大人の態度を取ろうとも、ダダ漏れなんだ。

話を戻して、新海監督もラッドもコケにされまくって地面に叩きつけられて一度は壊れたものを、隠れて拾ってこそこそ楽しんでいたけど、よく考えたらそんなことする必要ないんじゃんって気づいて、嬉しくて嬉しくて、ぎっくり腰を引きずって苦しんでいる塩鯖を撫でまくっていた。

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豊島美術館の「母型」が気になってちょっと調べていた。私が「これは子宮の中か」と思った場所のこと。すごく簡単で誰もが知っていることを、ひとつの形にした場所なんだろうなと思い至った。

www.teien-art-museum.ne.jp

相変わらず都合のいいだけのスピリチュアルはまるで信じていないのだけど、遺伝子に組み込まれている逆らえない輪廻は無条件に信じられる。それは私たちの都合なんて関係なく、ただただプログラム(というと一気にオタク感が増すな。種子が芽吹いて葉を広げ、花を咲かせて種子を作るという行程そのもののことなんだけど)を遂行していくだけのこと。その中では超能力もなければスーパー第六感とかもない。なぜかというと、花も木も風も水も人間も、同列であるから。

水は花を育てようとしていないし、風はリボンを揺らそうと目論んではいない。
誰一人として調和しようとして調和していない。
自分さえも今ここでそれらと同列になって調和している、奇跡みたいな空間なのか。
隣に友達はいるけれど伝える必要はない。
同じだから伝える必要はない。

……zzz
by眠りに落ちる直前の私の頭の中

豊島美術館の母型の中で私はこんなことを考えていた。と思う。そのときは疲れていて、感動していて、なんだかよくわからないままに寝転がって寝て、ああー気持ちええーって思っただけだけど、その「ああー気持ちええー」って中にこういうのが入っていたんだと、今分析したんです。

そもそも、スピリチュアルって言葉の節操ない感じには呆れるぐらいの気持ちを持っている。妄想や創造を人と共有できれば、それはある意味では悪夢にしかならない。それぐらいに、私は人を信じていない。でも、個の強さや、短絡的にも映るわがままさは信じている。この世界は、いつだって対極のもの同士のバランスで成り立っているんだと思う。そしてそこで生まれた「ツケ」みたいなものは、誰かのエネルギーになったり、足を引っ張ったり、善悪や良し悪しを越えたところで巡っているんだと思う。

まさに「風が吹けば桶屋が儲かる」だな。この諺は超世界系だったんだな。

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昨日の夜は寝苦しく、涼を求めてさまよっていたらしい(塩鯖談)。どうせ寝苦しいなら、百鬼夜行に参加する夢でも見たいものです。あれはたぶん違う次元のマツリゴトだから、一度参加してみたいのよ。