生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

夜になってしまった

 朝からポスティングに行っていて、夜になってしまった。いや、ポスティングに出かけたのは9時半で、帰宅したのは15時前、その後チラシを渡すついでにファミレスでくだをまいたのが16時半~18時半、という感じで、概ねボランティア活動のことばかり考えていた。

 といっても、先日お昼のそばを食べ逃していたので、今日は途中でご飯を食べた。珍しくラーメンである。

 ラーメンの好みは、カレーのそれよりはるかに複雑だ、ということを忘れていた。残念ながら好みではなかったが、これは讃岐いりこラーメン。餃子も食べた。私は王将のワンタンメンが好きだな(安上がり)。

 一度でもうどんの外れを引くと、躊躇してしまう保守っぷり。私は基本的に同じ道しか通らない。そんなことも、ちょっと忘れていた。

 今日昼過ぎには、一万歩達成。自分に拍手。しかし、都会では一万歩なんてちょろいのだろう。ハンパな田舎に住むと歩かないからいけない。まぁ、だいたいハンパな田舎か、ど田舎をてくてくてくてくしているのだけど。不審者疑惑の一件から、ポスティングはまともな服で、眉毛ぐらいは描いていくことにした。カッパは止めて傘でね。

 自分の性質に改めて驚くことがある。ポスティング前には必ずGoogleMapで事細かく地形を確認し、道の幅や駐車場のポイントなどを洗い出し、さらに配布区画まで描いていく。配布ポイントに行ってもなお、車を走らせて歩ける道か、家の間隔はどうかなどを確認する。私自身は用意周到な性格ではないのだが、こういうことに限っては二度手間が一番嫌いだからだ。ただただ、それだけだ。しかし、よく一緒に配る彼女はとても奔放で、悪気もなく区画をぶっちぎる。最初こそ「なぜこいつは人の話を聞かない!」と思ったが、彼女がいるところに私が行けばいいだけのことだ。そう考えるようになって随分と楽になった。

 そして今日、その彼女とくだをまいていたときに気が付いた。彼女からすれば、私のこのやり方はとても窮屈であるということ。それはとてもよく分かる。ちょっとやり過ぎだったかなって思うから、今度からは一斉配布のときだけ、区画を区切らない地図を持っていくとしよう。

 こういう細かさを便利と思う人もいれば、煩わしいと思う人もいるのだから。

 私はたぶん、無駄に記憶力がいい(でも覚えないといけないことを忘れたりはしょっちゅうある)。塩鯖は、細かな日常の記憶について「便利だと思ってる」って言ってるけど、以前は「嫌がらせ」とか「揚げ足を取るために覚えているのか」と言われたこともある。どちらともにいい顔をしたいわけではないし、今塩鯖が「便利」って言ってくれてるのならそれで十分なのだけど、それが前面に押し出されるシーンを自らが作る必要はないか、と思ったのだ。

 こういうところ、ついついやり過ぎてしまう。反省せねば。

 改めて読み返して、不思議なほど二度手間を憎んでいることに気づく。一人きりなら二度手間でも三度手間でも「あ、しまった」程度だが、チームプレーとなるとそうも言えないからだろうな。迷惑をかけたくない、同時に迷惑を被りたくない。こういうせせこましさが、きっとあのおおらかな彼女を窮屈にしたのかな、と思う。

 疲れているのかな。犬猫をものとして扱う人もいるし、目の前の野良犬に餌をやることを優しさだという人もいる。それに対して、その価値観に対して、私はなにも言えない。野良も飼い犬も同じ犬なのに、なぜ飼い犬だけ飼い主を探すと言われたら、それはそうだと思う。今、家に犬を招き入れられない私は、口をつぐむ方法しか思い浮かばない。ただ、古い誤解(保健所は繋いでいる犬も連れて行くとか、保健所は犬を殺すために捕まえるとか)は解いていきたい。生命を殺すことに楽しみを見出す人は、それほど多くないと信じたい。

 さすがに歩き疲れたようだから、さっさと寝ることにする。