生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

歩と飛車角、そしてモノサシ:補足

 日を改めて読んだら不親切だったなと思って補足。

 まず「作業の半分以上が翌日に繰り越されていた」ことについて、私たちネット要員は、ネット店舗に商品を出すのが一番大事な仕事だから、まさかそれをスルーするとは思っていなかった。私たちネット要員は、ネット店舗に出品するために撮影したり原稿を作ったり調べたりしているわけだ。出品しなくていいなら、そもそもネット専門の要員に人件費など割かない。

 しかし彼女にはその理解がなかった。

 こうした事例は先の投稿に張り付けたツイッターの「単位取得の意味がどうしても理解できないのです。」とつながる。

 ひとつひとつの事柄の目的を知ろうとしない、分かろうとしない、だからなぜその手順が必要か、なぜこの順番で作業を行っているのか、そういう疑問がないままに、教えられたことを教えられた順にやろうとするからおかしなことになりがちだ、ということ(その悪しき良い例が「県条例素案にゲーム利用時間制限」だと思う)。

https://www.pref.kagawa.lg.jp/content/dir8/dir8_11/dir8_11_2/w4tl9j191224083619.shtml


 目的を失った決まり事にありがちな、形骸化がここに生まれる。考えなくていいから楽だ、しかし決まり事が多すぎて毎日が忙しくすり減ってゆく。どんどん思考することができない疲れた人が量産される。クソでカスである。

 私は「なぜ」を大切にしている。疑問を持つから調べようとするし、自分でやってみようとも思う。その過程でたくさんのことを学ぶ。中には直接関係ないこともあるし、ほかの時に解消されなかった疑問が解決したり(そしてその時の疑問は解決されなかったり)もする。人は理由を知りたい生き物なのだ。

 かなり話が飛躍するけれど、私は妹が死んだ理由が知りたかった。物理的な原因やそれまでの精神状態など、大枠のところは当然分かっている。だけど唯一分からない当時の本人の気持ちを、もっと言えば当時の本人の気持ちの中にある、私への気持ちを知りたかった。でもこれは知る方法がない。どうしたってない。だって本人はもういないのだから。

 そこでいつぞや読んだ河合隼雄先生の言葉がよみがえる。人は自分の中で物語を作ってその記憶を補完して前に進むのだ、ということ。答えがない、だから進めない。それは留まりたいときの言い訳、メランコリックな自己憐憫に浸っていたいときだけだ。人はいつまでもそうしていられない。なぜなら、生きているから。

 私は人が考えることや、想像することや、工夫することを放棄したら、地球上でもっとも無益な存在になると思っている。息を吸って、生命を食べて、排せつするだけのサルである(アジアンカンフージェネレーション「新世紀のラブソング」より)。

 歩は飛車角にはなれないと、ひとつ前の記事に書いた。これは「今のままでは」ということ。実際には生まれたばかりの人たちなんて、可能性しかない。飛車角なんだと思う。それが、向上心や、野心や、成長欲が失われてゆくにしたがって歩になる。逆に言うと、飛車角と歩との違いなんて、それがあるかどうかなんだと思う。

 そりゃあ、やる気ばかりで学習しない痛い奴もいる。でも、そういう人たちもいつかは「同じところでいつもつまづいている」と気づけば、それまでの経験が全て学びに変わる。けれど今の日本に多くて問題になりやすいのは、失敗を恐れて行動していないから経験値も少ない人で、それで十分だと満足してしまっているケースじゃないかなと思う。

 日本は失敗に対して不寛容な国だという。でももっとよくよく考えると、失敗した時の対応が不誠実であることを許しがたいんじゃないかなと思う(河井案里参院議員の問題を見てて思ったこと)。それがたとえ失敗に対して寛容な国であっても、不誠実さを許せる人は多くはないと思う。でもそれが不誠実かどうかを言い切ることが怖いから、失敗を叩くことになるのではなかろうか。

 話がかなり飛躍したけれど、おおもとの根っこを知ろうとすることはとても大事だと思う。だから私はいつも考える。私は何をしようとしているのか。私はなぜそれをしようとしているのか。面倒くさいし、時にすぐ答えが見つからないときもある(ええと、あれ?なんでだっけ?)。そんな時は放っとけばいい。そのうちどこかで答えが分かる。いつかどこかでその答えたちが集まって円を描くとき、自分の人生の目的や使命が見つかるんじゃないか、そんな風に思っている。