生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

へとへとである

 こんにちは、なんだか風邪がちっとも治らない感じ。ずっと鼻声。なので今日は養生している。

「それ、本当に夏風邪?」と何人の人に言われただろうか。私も疑っているが、症状やその他もろもろを含めても夏風邪以外が思いつかない。あえていえば、疲労か何かが蓄積されていて治りが悪いということだろうか。

 というわけで、昨日なにをしたのかあんまり覚えていない。もらってきた小玉スイカもいつどうやって切ったのかあまり覚えていないほどに。もう小玉スイカはなくなりました。あとは種なしの大玉と、ラグビーボール型の大玉だ。スイカは好物なのだが皮との格闘になることを考えると、ごみの日の前にいろいろするのが得策なのだ。

 さて。

 許さない人って大変だなって、先日書いた。母はいろいろ許せないものが多いので、大変だなと思っていたけれど、冬から夏に季節がうつろったことで、母の許さないも緩和されているような気がした。きっと許さないでいるのは難しいのだ。楽じゃないのだ。そういうことを体で感じて何となく流れるように「あれ、許しちゃってるかも」って言える人は楽だろうなと思う。楽だけど、それが普通の、ごくごく自然な流れなのだと思う。しかし、自分の中のそんな流れに対して、感情で「あんたあの日々を忘れちゃいないだろう!?」と恨み節で感情を鼓舞して許さまいとしたり、何となく素直になれなくてぐだぐだ駄々をこねたりする人は、かなり多いのだろうと思う。

 なぜそんなことになるのか。私なりに考えてみた。きっと、今まで生きてきたということに、あるいはそのやり方や、考え方に、ある種の自負があるからではないだろうか。うーん、でもそれだけでは決め手に欠ける。そういうやり方や考え方で、今までを生き抜いてきたからではないだろうか。うん、これが近いかな。

 かくいう私もそういう「~でなければならない」が多くって、本当に窮屈に生きてきたなと思う。今もまだあるだろうが、この長引く夏風邪でもうどうでもいいことも増えてきた。例えば2年余り毎日書いてた「今日の星占い」これもきっと明日は書けない。無理だ。少し前の私なら、熱があろうが気分が落ちていようが、やると決めたんだからやるんだとやっただろう。

 根底には「楽しみにしている人がいる」という思いと、「継続することで人が来てくれるかもしれない」という思いがある。事実そういう人はいるけれど、果たして私はその人たちのために自分を犠牲にまでしてやりたいのかな、これを、と考えたら答えがNOだった、ということだ。

 私は今まで、継続することで信用を得てきたと思っていた。けれどどうだろう、それは本当のことだろうか。

 塩鯖なんて出会って4,5年ぐらいだ。でも私は誰よりも彼を信頼し、当てにしている。時間じゃない、ということは分かっていたのだ。