生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家4年目~

もうここにはない道

kato.hatenadiary.com

「分かたれた道の先」とか、よくわからないことを考えてしまうのだ。

 朝っぱらからid:t_katoさんのブログを読んで「分かるねえ」と思っていた私です。おはようございます。こたつにノートパソコンの季節がやってまいりました。最高過ぎて動きたくない。

 最近はもうほとんど考えませんが、昔はよく考えていました。あの時選ばなかった選択肢を選んでいたら、今私はどこにいたのだろうか。そんなこと考えるだけ無駄なのは重々承知の助ですが、考えずにはいられないほど「今ここにいる自分は自分じゃない感」があったんだと思います。誰かのせいにしたかったんだよ、そういう気持ちを、思い通りでない人生を。

 でもね、なにがしかの人生の節目っていうものは、自分が何を選んできたかという結果に過ぎないんですよね。誰かにそうさせられたわけでもなく、誰かに押し付けられたわけでもない。100歩譲って押し付けられたとしても、断ることはできたはずなのに、断らなかっただけのことなんです。だから本当に、全部自分が望んで選んだものなんです。

 というとね、諦めが肝心なのねと誤解する人も多いけど、悔いてることがあるなら、悔いてりゃいいと思うんです。ただ、悔い続けるのはきっと今まで通りのことだから、変えたいな、変えようかなと思うならば、なぜ悔いているのかその理由を探すべきだと思います。なんで後悔してんのよ、本当はどうしたかったのよ、と。

 たぶん一番認めたくないものが出てくると思う。そう、私なら「子供が欲しかった」とかね。

 でもいないもんはしょうがないし、子供がいない人生だからこそ得られたことがある。そう、叶えなかったからこそ得たものに気づくことができたら、後悔は終わると思うんですよ。でね、そういう心境って「諦め」とか「開き直り」とはちょっと違うと思いませんか? 違うんですよ、諦めても開き直っても後悔なんて消えやしない。後悔を昇華する方法は、それを叶えるか、叶わない今だからこそ得たものを受け取るかです。

 でもね、それでも時々やたらとリリカル*1モードになることがあります。平常運転していた心が突如リリカルという穴に落ちるみたいな。その落差が、一瞬にして絶望したときと同じ感じがして、でも絶望とは違って落ち込んだりはしないから逆に言いえぬ気持ちになって、私の場合は「ああ、おうちに帰りたいな」と思うんです。

 それが良いとか悪いとかはないんですけど、びっくりするんですよね、毎回。そんで、うちに帰って食事の支度をして、夫が帰ってきて家がにぎやかになると、とんでもなく幸せな気持ちになります。

 こういう複雑な心境を日々感じられるようになった自分が大人になったなあと思うと同時に、日々はとっても愛おしくて大事だなあと思うんです。

*1:感情や気持ちなどが、じんわりと外に現れるような雰囲気や文章などを表す言葉