生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家一年目~

塩鯖の帰宅が遅い日である


 今日のお弁当。余った塩鮭と舞茸の炊き込みご飯と、余った白米を融合させるために野沢菜の漬物をのせました。自分の飯に手間も暇もかけたくない女の弁当なんてこんなものです。しかもコンビニでもらった箸。潔い。

 さて。

 今日は塩鯖の帰宅が遅い、ということをすっかり忘れてさっきまでご飯を待っていた私です。すっかり忘れていたことに驚きました。そして遅い晩ご飯を食べたらめっちゃ眠い。たぶんこれを書いたら寝ます。

 さて。

 サギデカという番組が面白そうだなと思ってちょいと見ました。でも4話の最後で「犯罪者側にいつつも正しいことをしようとしている青年」が、突然正義に目覚めたあたりで一気に興ざめしてしまいました。

 いや、私はそれほど世の中に絶望もしていないのよ。でもそれほど期待もしていないの。でも私自身がかなり平和ボケしているタイプだから、人はどこかしらで「正しくあろうとするものだ」と思っているところはあるんだけど、でも今回のはなんかとっても違和感があって受け入れられなかった。少なくとも、正しくあろうとする種を持っている人は、同じ泥に二度も三度も戻ろうとしない。

 と、その時は言葉にもならなかった違和感を、塩鯖は「悪い奴はいるんだよ」という一言で片づけましたが。そうなんだよね。

 人生で一度だけ「ああ、これはもう手に負えない。血を入れ替えようと、人生のスタート地点を変えようと、きっと無理だ」と思った人がいる。もう憎しみも枯れ果てたのでなんとも思わないが、あの人に出会った意味があるとしたら、どうしようもないことがあるということを知るためだったのかもしれない、と思う。

 その人のことをどうにかしようとすることを諦めるとき、心に浮かんだことは今も忘れられない。当時の私は家族からも呆れ果てられて、正直合わせる顔もないというときだった。私の心に浮かんだのは「私の人生を、これ以上こいつのために使うのが惜しい」と「家族と昔のように過ごせるようになりたい」だった。

 まぁ、早い話が天秤にかけたわけだ。そしてスパッと手を引いた。二度と振り返らなかった。あの時の、あの瞬間の決意は、人生において決してドラマチックでも印象的なシーンでもなかったけれど、きっと一生忘れることはない。

 これについては、迷路を逆に解く要領でやったとしてもあの決意にはたどり着かないだろう。七転八倒を繰り返し、何度も道を踏み誤って落ち、傷まみれになったから言えたことだと思う。

 最近メンタリストdaigoさんのYoutubeを見て、この人は賢いなあすごいなあと思ったのだけど、一番「すげぇ」と思ったのは8年間のいじめ時代を経験し逆転したというお話で、ぶっちゃけ心理学的に人ってこんなだよという話はさして心に残らなかった。それもきっとdaigoさん的には説明できるだろう。人に夢を語る時に大切なこととして「個人の苦しみ談」「共感できる課題」「大義名分」と話していたけれど、これは夢じゃなくても言えること。大義名分とは要するに大勢の人の願いの最大公約数のことだから、苦しみの経験を共有することによって(私はいじめの経験に共感したわけだ)自分の願いを上手に最大公約数までもっていけば大体の人の心に響いて「すげぇ」と思わせることはできるだろうね、ということなのよ。

 それを意図的にやろうがやるまいが、そういう手法は共感や賛同を得るにはとても有効な手段だろうが、なんだろうなあ、私のあのろくでもない人生の瞬間には到底かなわないんだよな。そういう「誰とも共有しきれない何か」を持つことは、人生の醍醐味なんじゃないかなと思う。