生きることは物語を作ること、をテーマに日々哲学するブログ

生きるとは自分の物語を創ること

日々のじだんだ ~見習いみかん農家二年目~

結局、雑多に書きなぐることになった

 メリークリスマス。風呂の栓を忘れました((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

 チビちゃんがやっちまう、お手伝いミスNo.3ぐらいに入る奴ですね。ああ、湯がもったいない。

 さてタイトルの話。一昨日、私は早い時間にぽっくり寝てしまってたんですけど、テレビで犬のしつけ云々の番組やってたんですよね。それ見て思ったんです、やっちゃダメなことを教えるだけなのに、なんでそんなに難しく考えるんだろうって。

 難しく考えた末に夫と喧嘩になる奥さん、家庭内でのしつけや教育あるあるが犬でも起こるって、日本はよほど平和なんだなあって思ってしまった(辛口すまぬ)。

 でも分かる部分もある。私も難しく考えて出た答えが正解だと思ってしまう時期が長かった。私はアホだから分かってないんだと思っていたし、同時に「分かってないなあ」ってやつをバカにしていた。だから「分かってないなあ」ってやつを見下すように、見下ろすように、上から目線で説教したりもしていたと思う。でも、そういう会話で(会話とも対話とも言えないけど)成し得るものは、なんにもない、どちらかが折れる以外に解決の糸口すらない、ゼロなのだと後から知った。

 こういうとき、相手の立場に立って考えようっていうのが定石だけども、きっとあの奥さんにそう言ったら「じゃあ犬の目線になります」とか言っちゃって、「僕は外の世界を知りたいよう」と自分の主張を後押しするような犬の気持ちの代弁をするだろう。犬の気持ちなんて犬にしか分からないというのに、物言わぬ動物をいいように使うかもしれない。っていうととても角が立つけどもね、こういうことは日常的に往々にして行われていると思うのだよね。誰もが。

 要するに、犬のことを話しながら、結局自分のことばっかり考えているってことだと思う。自分の正しさで相手を打ち負かしたいんだと思うんだよね。

 正しさって麻薬だなあと思う。正しければいいのか? って話はたくさんあって、正しければ何でもいいって話でもないってことはみんな分かってるのに(時々本気で「正しいことで世界が溢れたら幸せになれる」と本気で考えている人がいるけれど、孟子性善説)と荀子性悪説)の思想の衝突みたいな感じで、結局は「自分はどう思ってるか」でしか答えが出ない類のもんだと思う)、なぜか正しさという麻薬に酔うんだよね。

 もちろん、私もだよ。うっかりするとすぐそうやっちゃう。まぁ、それ自体悪いことでもなんでもないだろうけど、後味の悪さや、結局話し合いを徒労にしてるのが自分だってことに落ち込むのに、もう疲れたというか、十分経験したから、もうそれはやめようと思ったんだよね。

 人は無意識のうちに、相手に変わってほしいと願う。それは同時に、自分は変えられない(と思ってるってことだと思う。でも、相手をどうにかするより、自分がどうにかなった方が、絶対に楽だし早いのに、自分は正しいとか、自分は間違ってないとか、自分は頑張ってるとかをカウントしちゃって、折れられないんだと思う。

 それが、現状をややこしくし、生きづらくし、なんにも思い通りにならない現実を作っているのだ。

 本当に、なにか願いを叶えたいとき、人は「その願い以外のことはどうでもいい、とにかく、なにがなんでも、この願いを叶えてください」ってなると思う。自分が消えて真っ白になって、願いだけが残ると思う。そういう願い事は、たいてい叶う。

 これが、本気で願えば叶うってことだと思う。

 たかが犬のしつけぐらいで、そう思っていたら何も思い通りにいかない。思い通りにいかないのは自分のせいなのに、他責にして「世の中なんてこんなもんよね」とさじを投げてしまう人のなんと多いことか。

 それでも何十年も生きられてしまう平和な日本。手厚い福利厚生の日本。政治家が国民に接待を伴う飲食店並みの気遣いをしちゃう、悪習慣に腐敗した日本。だけど、どの国よりも、簡単に自分を折って人に譲ってしまう、気弱で優しい日本。

 そんな日本にすっかり慣れてしまっているんだなと思った。

 もちろん、これ全部自分に対していえること。だから、本当に何とかしたいな、変えたいなって、心から思う。